茶漬閻魔
休日は徒歩圏内の閻魔堂
(きゅうじつは とほけんないの えんまどう)
閻魔詣は夏の季語だが、初夏ではなくて晩夏を表す。気候も変化するのでここは請御容赦。
休日なので、散歩がてら市内にある深大寺に参詣する。自宅からは徒歩1時間ほどの距離だが、途中、鯛焼き屋に寄り、その後、祇園寺にも寄ったので往路は2時間近くかかった。
祇園寺は深大寺と同じく満功上人によって天平年間に創建された寺、らしい。調布七福神の福禄寿が祀られており、閻魔堂もある。但し、長く無住の状態が続いて廃寺同然の状態に至ったこともあり、創建当時のものは残っていない。現在は墓地、即ち檀家を抱え、境内も綺麗になっている。また、明治41年に中西悟玄師が来住。同年9月にこの寺で自由民権運動殉難者慰霊大法要が執り行われ、その際に板垣退助も自由党幹部と共に参列し、法要の後に演説会を開いたとされる。その際に板垣が植えたと伝えられる松が大木となって境内に聳えている。中西は日本野鳥の会の創立者である中西悟堂の養父でもある。悟堂は深大寺で僧籍につき、悟堂という名はその時の法名だ。野鳥という言葉は悟堂による造語だそうだ。
深大寺は関東屈指の古刹。有名な寺なので寺の説明は不要だろう。まずは門前の蕎麦屋で腹ごしらえ。行列に並んで何かを求めるということはしない質なので、待たずに入ることのできる店でしか食べたことはない。その所為かどうか知らないが、正直なところ特別旨いとは思わない。普通の蕎麦である。蕎麦で感心するほど旨いと思ったのは奈良県葛城の當麻寺の門前にある薬庵。自分の生活圏内にある店なら東京駅丸の内口前、オアゾに入っている小松庵。小松庵は本店が駒込だが、本店より丸の内店の方が旨いと思う。蕎麦のことはともかくとして、腹ごしらえをしてから深大寺にお参り。素直に山門から入り、本堂、元三大師堂、釈迦堂、深沙堂、延命観音と一通り参拝する。
本堂には参拝の行列ができていた。元三大師堂の縁側には自分の身体の悪いところを撫でると治るとされる撫で仏のおびんずる様像がお座りになられているが、例の感染症対策で撫で撫で禁止。それにしても、古い木像なのでひび割れがもの凄く、撫で撫でよりも保湿クリームをスリスリして差し上げたいと思った。手遅れか。
釈迦堂には国宝の銅造釈迦如来倚像が安置されて有料で公開されている。奈良の新薬師寺の高薬師像、法隆寺の夢違観音像とお顔、素材、全体の雰囲気などが似ており、同一工房で制作された可能性が高いとのこと。仏像のお顔は時代とともに変化する。もちろん、作り手の個性はあるのだが、私はこの白鳳とか飛鳥、天平の作とされるものが好きだ。時代が下って仏師の名前が前面に出てくる鎌倉以降の仏像は技巧が凝り勝り過ぎて、ちょっと嫌な感じを受ける。江戸時代以降のものは目も当てられない。人一人の生命史のなかで自我の芽生え、自己の確立、というような変化があるように思うが、人間集団の歴史においても似たような変化があるような気がする。現代の我々と、白鳳の人々とは、自我というものの有り様が随分違っていたのではないだろうか。もちろん、そういうことは確かめようがないのだが、残された仕事を眺めるにつけ、同じ人間のやることとは思えないのである。良し悪しを言っているのではない。ただ、違うと言いたいだけだ。
深大寺のおみくじは他の寺社に比べ凶が多いらしい。境内の掲示にも寺のウエッブサイトにもそう書いてある。
妻も私も寺社でおみくじを引くということはしないのだが、その掲示を目にしてこれは引かないわけにはいくまい、ということになった。おみくじは木製の筒状の容器に番号を記した竹籤が入っていて、容器を横にして十分に揺すってから立てると天板の小さな穴から竹籤が出てくる。側に番号のついた引き出しがあり、引いた竹籤の番号の引き出しから籤の内容を記した紙を取り出すというものだ。ここは、「深大寺でおみくじ引いたら凶が出ちゃってさ…」と話の種にするところなのかもしれないが、吉という自分の人生を象徴するかのような中途半端な籤だった。おみくじ如きで喜んだり心配したりするものではないのだが、吉という小市民的な感じに苦笑を禁じ得ない。ちなみに妻は大吉を引き当て大笑いしていた。
帰りも徒歩で野川沿いに甲州街道まで行き、甲州街道沿いにあるスーパーで買い物をしてから自宅最寄りの駅まで行き、駅近くの菓子屋で柏餅を買って帰宅した。今日は普段お茶を買っている大宮の茶屋から狭山茶の新茶が届いたので、新茶で柏餅をいただきながら、「茶漬けえんま」という落語を聴きいた。(2021年5月4日火曜日記す)