たまに短歌 ウラン237
陽が昇る西の空から白い灰
笑顔が消えた長い航海
ひがのぼる にしのそらから しろいはい
えがおがきえた ながいこうかい
昨日、急に思い立って第五福竜丸を見てきた。午前中、池袋で陶芸をして、昼食の後、地下鉄有楽町線で新木場へ。9月に入っても暑い午後。
職場の昼休み勉強会の講師の順番が近づいている。6月に原子力関連銘柄に注目するという投資レポートを読んで、その内容に違和感を覚えた。それで、今回の勉強会では原子力の基礎的なことを話そうと思っている。プレゼン資料を作る中で、次から次へと知らなかったことに遭遇している。ウラン237というのは第五福竜丸展示館で手にした資料で初めて知った。おそらく非常に不安定な物質なので、よほどの量に恵まれないとお目にかかることのできない物質だ。
広島や長崎に投下された原子爆弾や原子力発電所で使われる燃料に使われるのはウラン235とその核分裂で生成されるプルトニウムで、ウラン237というのはそれらのプロセスからは出てこない。自然界にはウラン238、235、234が存在するが、圧倒的に238が多い。それだけウラン238は安定した物質であるとも言える。ウラン237が発見されたのは第五福竜丸から採取された所謂「死の灰」からだ。このことから第五福竜丸の被爆の原因になった核実験が水爆によるものであることがわかった。
今のところ、ウランは自然界に存在する最も陽子数の大きい(92)物質とされていて、ウランが核分裂するとウラン以外の物質になるので、ウラン237という自然界に存在しない同位体が観測されたということは、ウラン238の中性子1個が弾き出されたということになる。ウラン238は安定した物質なので、その中性子を弾き出す程大きな反応があったということであり、237という不安定な状態になることでそこから核分裂が始まるということだ。
核分裂のエネルギーは質量数(陽子の数と中性子の数の和、「質量」ではない)の大きい原子ほど大きなものになるので、ウラン238を核分裂させるということが或る意味において最強のエネルギー発生プロセスということになる。逆に、質量数の小さい原子を融合して質量数の大きな原子するというのも大きなエネルギーを発生させる。自然界で最も質量数が小さいのは水素(水素には中性子がないので陽子1=質量数1)だ。それを兵器という形で体現したものが所謂「水素爆弾」で、東西冷戦が緊迫していた時期にはそれぞれの陣営で盛んに開発研究が行われたという。1952年11月に米国が初めて水素爆弾の爆発実験を成功させ、以来、複数の国が実験を成功させている。爆発プロセスの複雑さ故に運用プロセス上の管理面に課題が残っているようだが、既にB52からの投下実験には成功している。
第五福竜丸が被爆したのは1954年3月1日、米国の「Castle Bravo」の際である。同船は自力で3月14日に母港である焼津に帰港したが乗組員23人は全員放射線症治療のため入院、無線長だった久保山愛吉さんが半年後に亡くなった。直接の死因は輸血による肝炎ウイルス感染が引き起こした肝炎だが、輸血が必要になったのは被爆により再生不良性貧血を発症していたからだ。被爆したのはこの船だけではないし、実験による放射性物質は日本本土にも降り注いでいる。当時、魚介類の汚染が話題となり、一時はパニック的に魚介類が忌避される動きもあったという。
被爆して生き残った第五福竜丸の乗組員の多くは焼津を離れたらしい。当然、米国政府は被爆と核実験の因果関係を認めることはなかったが、「見舞金」として、しかも、第五福竜丸の乗組員にだけかなりの金額が支払われることになった。このことが世間の嫉妬を生み、彼等は地元に居られれなくなってしまったのだという。
乗組員の中で最後まで存命だった同船の甲板員だった大石又七さん(1934/1/23 - 2021/3/7)は退院後、東京に移住してクリニーング店で修行して技能を習得し、自身でクリーニング店を開業して2010年末まで同事業を営んでいた。展示館では大石さんが被爆やその後の思いを語る動画を視聴できるようになっていた。東京で暮らし始めて後も長いこと、被爆のことについては沈黙を貫いていたのだそうだ。東京というところは良くも悪くも他人に無関心な土地なのだが、そういうところに暮らしていてさえも沈黙を解くことができないほどの誹謗中傷を入院中に受けたということなのだろう。本当に怖いのは、核兵器そのものよりもそういうものを生み出す我々自身だ。
インターネットのようなものが無い時代にあってさえ、生活を脅かすような圧がかかる世間の暮らしがあるくらいなのだから、昨今のSNS上の狂騒は我々の「当たり前」の範囲内だろう。この社会で、呑気に馬鹿馬鹿しいことを言い合いながら笑って暮らすというのは、実はとても尊いことなのだと思う。