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たまに短歌 滋賀県長浜市8 2024年10月1日 観音の里

観音を守る人在る里に住む
人の居る里心ある里

かんのんを まもるひとある さとにすむ
ひとのいるさと こころあるさと

白洲の『かくれ里』にはこうある。

 長浜をすぎると、急に静かになり、車で15分ぐらい行った所に、高月という駅がある。そこから東へ少し入った村の中に、貞観時代の十一面観音で有名な渡岸寺があって、土地の人々はドウガンジ、もしくはドガンジと呼んでいる。この観音については、今までにもたびたび紹介され、私も書いたことがあるが、近江で一番美しい仏像が、こんなささやかな寺にかくれているのは、湖北の性格を示すものとして興味がある。

白洲正子「湖北 菅浦」『かくれ里』講談社文芸文庫 174頁

私の場合は、菅浦から長浜市街へ向かう途中で高月に立ち寄った。その前に、長浜市街から余呉湖に向かう途中、木之本駅の踏切を渡ってすぐのところに大きな寺があるのを認め、帰りに参詣することにしていた。菅浦から高月に至る前にその浄信寺にお参りし、門前の角屋という菓子店で菓子とコーヒーをいただいた。東京で暮らしているから尚更そう感じるのかもしれないが、菅浦もここも人の姿が少ない。それでいて、暮らしの気配はちゃんと感じるし、通りも寺社もきれいになっている。清潔というより清浄という言葉の方が合っている気がするくらいだ。ただきれいというのではなく、多少畏れ多い印象なのである。普段の生活圏を離れてみると、そういう土地がたまにある。

長浜に行ったら訪れようと思っていたのは竹生島と渡岸寺だけだった。特に旅行が好きなわけではないのだが、出かけるとなんとなく寺社教会に参詣する。その土地への挨拶のようなものだが、意識してそうしているわけでもない。ほんとに「なんとなく」なのである。

湖北一帯には戦国時代の古戦場が多い。高月周辺だけでも姉川の合戦(1570年、織田信長・徳川家康 対 浅井長政・朝倉義景)、小谷城攻防戦(1573年、織田信長・羽柴秀吉 対 浅井長政・朝倉義景)、賤ヶ岳の合戦(1583年、羽柴秀吉 対 柴田勝家)、少し離れて関ヶ原(1600年)がある。古来、寺社は純粋な宗教団体ではなく、政治集団でもある。当然、武将間の闘争において純粋に中立ということはないはずだ。実際、戦国の世に焼き討ちに遭って大きな打撃を受けたり、廃寺になったところは珍しくない。例えば、信長と浅井・朝倉との紛争において、信長は浅井・朝倉に加担したとして比叡山延暦寺を焼き討ちしている。その信長は本能寺の変で亡くなった。延暦寺や本能寺のほかにも、度重なる紛争の中で多くの寺社が灰燼に帰した。戦乱以外にも地震や水害が幾度もあったはずだ。そういう状況を乗り越えて、たくさんの観音像が今なお湖北に点在している。

渡岸寺観音堂で拝んだ十一面観世音菩薩は聖武天皇の時代に疱瘡が流行した折に病除けとして彫られたなかの御一尊だという。

 以来、病い除けの霊験あらたかな観音像として敬仰せられ、桓武天皇の延暦20年(801年)には比叡山の僧最澄が勅を奉じて七堂伽藍を建立し、多くの仏像を安置して輪奐の美をきわめました。しかし、時勢とともに寺運は漸く衰え、元亀元年、豪雄浅井・織田両氏の戦火のため、堂宇は悉く烏有に帰し寺領亦没収せられて、ここに全く廃滅してしまいました。
 この兵乱に観音様を敬仰する住民達は、兵火が堂宇を襲うや猛火を冒して搬出しましたが、お守りする堂なく、やむなく土中に埋蔵して難をまぬがれたといわれます。

国寶十一面観世音渡岸寺観音堂(向源寺)拝観券

今、自分の眼前にある観音像は土に埋められていたのである。掘り出されてからは、村の共有仏として、どこの寺のものでもなく、守り伝え続けられていたのだが、明治に国宝指定を受けるに際し、便宜上「渡岸寺観音像」ということになったという。今も、観音堂を管理しているのは地域の複数の寺院の人々だ。今回、参拝に際してお寺の人が解説をしてくださったが、その人の寺もここではないのだそうだ。

今年の夏は特別暑かった感があるが、10月だというのにこの日もまだ暑かった。それでも観音堂の中は心地良く、落ち着いて十一面観音と大日如来坐像、阿弥陀如来坐像を拝むことができた。当然、空調があるものと思っていたのだが、御像の保存の見地から空調の類は無いのだそうだ。とすると、この快適空間はどのようにして実現されているのか。御堂の躯体は鉄筋コンクリートだが、内装は桐材なのだそうだ。床、壁、天井全て桐材が貼り巡らされている。よく箪笥の素材で桐が使われるが、そういうことなのかと納得できた。

渡岸寺の十一面観音立像には躍動感がある。片足を踏み出そうとしているかのような姿勢、相対に長い腕、全身の形状と傾斜、顔の表情、そうしたものを含めた一才合切が、なんとなしに近しい感情を喚起する。大事にされるものは大事にされる何かが備わっているということなのかもしれない。この辺りではこうした観音像が今なお多く大事に守られていて、「観音の里」とも呼ばれている。長浜市内の寺院や観光施設で頒布されている『長浜観音路』という観音像の案内地図に掲載されているだけでも58の寺院や御堂がある。2014年と2016年の二度にわたり東京藝術大学大学美術館で「観音の里の祈りとくらし展 びわ湖・長浜のホトケたち」という企画展が開催されたが、そこで展示された仏像は2014年が18尊、うち観音像が16尊、2016年は44尊、うち観音像が24尊だった。長浜のホトケ様といえば観音様の感がある。

長浜市の市域は古い時代より日本の要衝であった。それがため、この地が安泰であったはずはなく、常にその支配を目論む勢力の争奪対象であっただろう。当然、そこでの暮らしも厳しいものがあったはずだ。観音信仰はそういう土壌の上に花開いたものだろう。学術上はそういうざっくりとした見方では済まないようなので、様々に検討されているらしい。

 なぜこの地域に優れた観音像が多いのか。その問いかけにはこれまでもさまざまな検討が加えられてきた。
 長浜市の北部、旧伊香郡地域には式内社が多く、それはこの地域の古代豪族の隆盛を示すもので、その経済力と政治力から優れた仏教美術品が生み出されてきたという説。あるいは、「日本霊異記にほんりょういき」に旧浅井郡には難解な経典を解読する集団がいたと記されることから、仏教説話ではあるが、そのような仏教的素養を備えた地域であったという説。そして、己高山こだかやまに奈良から山林修行にきた僧侶たちが先進の仏教文化を当地に伝えたという説などがある。

秀平文忠(長浜市文化財保護センター 学芸員)「湖北の観音像の造形的特色」
長浜市長浜歴史博物館 編『びわ湖・長浜のホトケたち』長浜市
「観音の里の祈りとくらし展 びわ湖・長浜のホトケたち」図録 119頁

観音菩薩は大慈大悲を本誓とし、古くから現世利益と結びつけられて広く信仰を集めてきた。しかし、現世利益だけでこれほど多くの観音像がこれほど長きにわたって守られるはずはない。そこに単なる信仰とは一線を画したもっと深い何かがあると思わないわけにはいかない。

たまたま先日、上野で田中一村展を観た。田中はある時期、観音の絵を集中的に描いている。田中は南画画家としてキャリアを始め、晩年は奄美大島に移り住んで独自の画風を確立する。今でこそ誰もがその名を知る画家であるが、生前は知名度も低く生活は楽ではなかったのだそうだ。田中は69年の生涯のなかで画風を大きく変えた時期が何度かある。徴用工として働いていた戦時中から戦後の混乱期にかけての時期に乏しい資材をやり繰りして描いた観音と羅漢の作品が多いとされている。それもまた、単なる個人的な信仰を超えた何かに突き動かされてのことではあるまいか。

果たして今の自分にそんな深い何かがあるのだろうか。

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熊本熊
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