季刊 民族学 175 2021年1月 千里文化財団(国立民族学博物館 協力) 特集:生き物と現代文明
特集は「生き物と現代文明」、ヒト中心で見がちな「生命観」の相対化を狙いとしたとのことだ。人が考えることなのだから人中心になって当然だし、「相対化」といったところで人の頭の中での相対化であるに過ぎない。他の動物たちと話し合うわけにはいかないから、どこまでいってもひとりよがりだと思うのだが、そんなことを言い出すと学問は成り立たないのだろう。
俗に生計を立てることを「食う」という。「そんなことで食っていけるのか」「この仕事でおマンマを頂いております」「なんとか家族を食わせていかないと」などと日常生活の中に登場する文句だ。うんと単純化すれば、人間も他の動物も口から肛門に至る筒状のものに手足その他諸々がくっついた物である。そして、何者かを捕食してその筒状のものを通過させることで栄養を得るのである。生きることは食うことだ。
世に「健康志向」というものがある。生まれようと思って生まれてきたわけでもないのに、「健康で長生き」というのが価値であるかのように語られる。生きることは食うこと、なのだから「健康」は当然「食」を基本とする。菜食が良いとか、肉なら牛豚より鶏や魚の方が良いとか言われたりする。日本では年間約7億羽の鶏が肉として消費されるのだそうだ。こういう鶏は「ブロイラー」と呼ばれるが、「ブロイラー」は鶏の種類ではなく、短かい時間で合理的に飼育・出荷する飼育法と、それによって飼育された鶏を指すのだそうだ。卵の方は別口で、こちらは常時約2億羽がせっせと卵を産んでくれているらしい。人口は減少に転じたが、ブロイラーのほうはまだ安定して微増傾向を辿っている。健康志向で人口減少以上に需要増があるということだろう。卵の鶏は卵用にできているので肉の味がよくないという。それで、卵が産めなくなると、加工食品の原材料になるのもあるが単に廃棄されるのもあるのだそうだ。
ちなみに豚の屠畜頭数は年間約1,500万頭以上で安定推移。牛のことは書いてなかったが、輸入が圧倒的に多そうだ。
私が小学3年生までは学校給食の肉は鯨だった。それが4年生から鶏になった。たぶん「健康志向」の所為ではなく、捕鯨が禁止になったからだ。自然保護に熱心なつもりの人が、捕鯨は野蛮だ、などと言ったりする。鯨は知能が高く、そういう動物を殺すのは野蛮だというのである。そして野蛮な行為は文明ある人間がやるべきことではないのだそうだ。だから、犬猫を殺すなどとんでもないことだし、猿を殺すなど考えもつかない、だろう。食べて良い悪い、それ以前に殺して良い悪いの判断基準がどうやら「知能」にあるようだ。ところで「知能」とは何だろう?
四半世紀ほど前、どこぞの新興宗教の教団がサリンをばら撒いて大勢の人が亡くなり、いまでもそれが原因の後遺症に苦しむ人がいる重大事件を起こした。その幹部には所謂「知能」の高い人たちが名を連ねていた。その教団幹部にとっては市井の人々は「知能」が低いので「ポア」しても構わないということだったのだろう。そういう極論と盲目的な自然保護はどこか繋がっている気がして怖い。たぶん近頃流行の「自粛警察」もその延長線上にある人々だろう。
人が生きる為に奪う人以外の動物の命においてさえ選別が行われるわけだが、そういう選別は人間同士の間にも適用される。人の命を奪うことは罪だ、というのは嘘だろう。誰かの「正義」という大義名分の下で別の誰かの命が奪われるというのは戦争でなくとも当たり前に行われている。大義名分が認められれば罪にならないどころか賞賛の対象にすらなることだってある。1965年にビートルズがMBE勲章の叙勲を受けたとき、主に退役軍人の間から彼等の叙勲に対する抗議が起こり、既に叙勲を受けた人々のなかには勲章を返上する動きも広がった。そうした事態に対するジョンのコメントが有名で、そのことで彼は批判も受けたが、彼はおかしなことを言っているだろうか?
自然保護、などという。自然とは何だろうか。地球の歴史が46億年だか47億だかあるなかで、人類の歴史はどれほどのものなのだろう。自然云々が語られる場合、それほど長い時間軸を考慮することもなしに安定だの均衡といった概念が使われる。科学を騙る情緒的な話が多い気がする。たぶん、自然保護に熱心なつもりの人たちは焼肉屋や焼鳥屋には行かないのだろうし、すき焼きやしゃぶしゃぶも口にしたりはしないのだろう。何を食って生きているのだろう?人を食った話でもしているのかもしれない。
結局、物事を決める時の基準は便宜的なものなのだろう。その時々の既得権者にとって都合の良いことが正義で、それに反することが悪なのである。社会はそれで動くとして、個人はどこまでそれに付き合うか。それは個人的な話である。