読んでいる間は引っかかることがたくさんあったのだが、天皇のことを書いたら、あとはどうでもよくなってしまった。素朴に、この後どうなったのかなぁ、と思ったのは戦死したことになっていた人が復員した話だ。主人公は種屋の人々。
自分の信じていたことが崩れ去るという点では渡辺にとっての天皇の場合と似ている。もうひとつ重要な話の要素は、イエという生活単位が色濃く存在する当時の農村の暮らしだ。今となっては、家督の相続というのは余程の旧家でもない限り問題とされることはないだろう。そもそも相続が問題になる程多くの子供がいない。皇室ですら皇位継承が危うくなりそうな気配を感じさせている。しかし、終戦直後のこの時代には、まだイエを継ぐ、イエを存続させるというのは多くの人にとっては一大事だったようだ。
11月24日の日記の中で、種屋の安造はイエを継ぐことが嫌であるような口ぶりで「おれさえ我慢すりゃ」などと言っているものの、実はその頃には嫂とちゃんとできていた。4月14日の日記の中では嫂の腹は隠しようがない状態になっているのである。前後の話から推定するに、安造は渡辺と同年代で、渡辺は二十歳前後だ。嫂は安造の三つ上と11月24日の記述がある。家族と一緒に暮らしているとはいいながら、年頃の男女が一つ屋根の下で寝起きを共にしているのである。その上、時代の空気としては、家督を継ぐことが一大事であり、長男の戦死が公報で既定事項となっている。となれば次弟と嫂がこういうことになるのは、むしろ自然だろう。そりゃ辰平の立場からすれば「おれが帰ってくるまで待てなかったのかよお」だが、状況としてはやはり待てなかったと思う。
もちろん、戦死の判断がきちんとできるような状況ではないことは誰もがわかっていたので、公報の「戦死」を受け入れることができず、いつまでも身内の帰還を待つ者もいた。「岸壁の母」の世界だ。人はそれぞれだ。
人それぞれなのだが、世相を考慮しないわけにはいかない。渡辺が暮らしている村の生活では食べるものに不自由はない。しかし、世間全体では依然焼け野原のままの都市部で餓死者が毎日のように出ていることが報道されているし、同じ地域でも町場から着物などを持って渡辺の家に米をもらいにくる人の様子が記されている。勢い、人々の関心は食べていようがいまいが、目の前のモノに集まりがちになる。
戦死したことになっているが、生きているかもしれない人の帰還を待つよりは、今ここにいる人との人間関係をしっかりと構築しないことには生活ができない。生活という実利もさることながら、敗戦で国土同様にボロボロになった「自分」というものの存在を確かなものにすることができない。圧倒的大多数が食うに困っていない今ですら、人は目の前にあるはっきりとしたものに縋って「自分」を確かめる。社会的地位、所得、資産、肩書、学歴、出自、その他諸々。大概のものは本人が思うほど他人は評価していないのだが、自分がそういうものを確かに備えていると思えることが大事なのだ。
自己承認欲あるいは自己顕示欲の強い人々の筆頭は政治家だろう。己の生身を世間の前に晒して、恥ずかしいことを言い、恥ずかしいことをして、得意になれるのは並の人間にできることではない。「ゲージュツ」関係の人々や「ジツギョウ」関係のエライ人たちも同類だ。しかし、そういう人たちがいるおかげで社会が機能しているのも事実だ。恥を捨て人前に立つカミサマのようなありがたい存在だ。
恒産なきものは恒心なし、という。人の道、人の心を語るには、自分の生活に余裕がなければならない。身をはって自己主張をし、結果としてそれで世の中が動くなら、主張の中身に関わらず、それはそれで尊いことだ。伊達に「先生」と呼ばれているのではない。大小様々な「先生」がたのおかげで我々は今日も安穏と生きている。