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網野善彦 『日本中世の非農業民と天皇(上・下)』 岩波文庫
昨年訪れた滋賀県長浜には菅浦という古い集落がある。その名前は梅棹忠夫の『私の履歴書』で目にしただけだったのだが、訪れてみると独特の空気感が印象的な土地だった。
菅浦には古くから「菅浦文書」というものが伝えられている。現在は滋賀大学に保管されている貴重な史料だ。本書では、特に上巻で、「菅浦文書」が頻繁に言及されている。非農耕民が暮らしを立てるのに必要な狩猟や漁労の権利であるとか、技能で身を立てるための技能証明や移動の自由の保障といったものを文書にしたものがあったのだそうだ。保障を与えるのは天皇ということになっている場合が多いのだが、交通が未発達の時代に全国津々浦々へ権利行使の担保になるようなものが手交される慣習が確立されていたというのは驚きだ。それはつまり、それほど強力な統治権力が存在したということである。当然、そうした文書には偽書が少なくなかったようだが、偽書が作られるということも権威にあやかりたいという動機があればこそだろう。それほど、この国の来し方や在りようを見る上で「天皇」という存在が大きいということになる。
歴史に特段の興味があるわけではないのだが、日々の生活の実感として、明治維新が終わっていない気がする。明治を生きたわけではないので、「維新」の実態を知らないのだが、この国の歴史教育ではそういうものがあったことになっているので、そういうことにしておく。
鎖国が解かれたのは幕末だが、大政奉還とそれに続く明治政府の成立を新体制の起点とすれば、それは1868年、今から僅か157年前でしかない。そういう点では他所の国も似たり寄ったりで、19世紀は産業革命で人類は自分たちが無限の可能性を手にしたとの幻想に陶酔して、世界中が火事場泥棒のような騒ぎになった。その「無限の可能性」の行き着く先は自己蕩尽だということが見えてきたのが現代だと思うのだが、陶酔は未だに収まる気配がない。
現在の所謂「超大国」はどれも成り上がりで、なかには成立から100年と持たずに暖簾替えをして、それだけで済まずに殴り合いの内輪揉めに陥っているところもある。他所の国とは桁違いの人口を擁していながら、昔ながらの権力集中で内部矛盾を突破しつつ怪進撃を続けてきたとこもここへきて雲行きが怪しくなってきた。四年単位で新陳代謝を行うことで体制継続を行う絵に描いたような生態系モデルのところは、相対に上手くいっているようだが、国家成立から僅か二百数十年にして早くも既得権への執着に目覚めて、生態系新陳代謝モデルの根幹となる移民を排除しょうという自己矛盾に陥ろうとしている。尤も、どれも聞き齧った話から勝手に想像するだけのことだが。
わが国では維新から太平洋戦争までは天皇の国という建付で、国民は天皇の赤子ということになっていた。敗戦からは国民主権ということになっているが、天皇は国の「象徴」という、それまでとは別のなんとなく特別な存在になった。そもそも維新は幕藩体制の制度疲労の結果なのだろうから、そこで構想されていたものと、実際に確立されたものとの間に如何なる本質的な差異があるのか、ないのか。人は経験を超えて発想することはできないのだから、革命だの維新だのと騒いだところで、出てくるものはどこかで見たようなものの名前を変えただけ、あるいは旧体制の居抜きのようなものだったりする。権力を激しく批判していた者が権力を握った途端に批判していた権力をえげつなく行使して、自分が倒した権力と同じように反体制派に斃されたりする。
とはいえ、この国は外部に範を求めることでここまでやってきた。維新以前は中国大陸の超大国をお手本のようにしていたが、肝心のお手本は王朝が何度も交代しており、こちらで崇めるほどに一貫性のある価値観を提供するようなものであったのかどうか。維新後は欧米列強で、それは今でもたぶん変わらない。海外経験や外国語の語学力が無意味な憧憬を集めたりする。中身の空疎な輩ほどそういう憧憬が強い気がする。
高校では漢文という科目があり、私も履修したが、あれは大変不思議なものだと思う。原本は中国語なのだろうが、それを日本語に読み下す。しかもその日本語は文語で、そのままでは現代の人間には容易に理解し難い。結局、原語である中国の言葉でもなければ、解釈する側である日本の言葉でもない摩訶不思議な言語を履修するのである。以前、漢文の高名な学習参考書の文庫化されたものを読んだ。そこにこうあった。
結局のところ、現在の漢文訓読は、奈良朝から江戸末期に至るまでの日本語が、雑然と同居しているわけだ。雑然としているからと言って、どれかの時点に統一しようとしても、もはやそれは不可能となっている。むしろ、訓読の中に見える日本語のさまざまな姿を見て、遺物を発掘する考古学者のような興味を味わうことができたら、それも楽しいことの一つに数えられるであろう。
おそらく、天皇とそれ以外の国民との関係も、これまでの長きに亘る関係の中で積み重ねられた複合的なものが一緒くたになって今があるのだろう。そこに統一的なものがあるわけではなく、その時々の環境に適応を重ねてきた結果として今がある。漢文に象徴される外部からの文物受容の在り方、それに基づく人々の在り方の不規則な蓄積こそが我々ではないか。そういう自身のアイデンティティを考える切掛として、思春期に漢文を学ぶ意味があるのではないか。今頃になって、そんなことを思うのである。
人間が社会的動物であるということは、社会すなわち構造体を形成して生命の維持を図るということだ。その構造は立体あるいは四次元五次元それ以上の複雑なものだ、というのが生活の実感だ。構造には骨格や核となる存在や共同幻想が必要だ。それは人が本来的に持っている世界観倫理観なのだと思う。そのナントカ観の根幹として神話や民話があり、そうしたこの国の共同幻想の核として「天皇」が誰からともなく構想されたのではないか。
昭和天皇が崩御されて相続問題が発生したということを知ったとき、この国の在り方の一端を垣間見た思いがした。べつに天皇制を支持するつもりも否定するつもりもないが、皇室の存在はこの先必ずこの国を揺るがす大問題になると確信している。
2007年に伊藤若冲の「動植綵絵」が相国寺で公開された時、早起きをして観に行き、それから東京に戻り出勤した。当時は午後4時からのシフトだったのでそんなことができた。「動植綵絵」は18世紀後半に相国寺に寄進されたが、相国寺は1889年に天皇に献納し、幾許かの下賜金を得た。明治は廃仏毀釈で仏教寺院は存続の危機に直面していた。当座の存続資金捻出のため、或いは存続断念後の始末のため、それまで日本各地の寺院で受け継がれてきた寺宝、仏像、仏具の多くが市中や海外に流出した。天皇が現人神との建付だったので国家神道以外の宗教は認められなかった。さすがに、そりゃヘンだろうとの思いは天皇の側にもあったのだろう。中には皇室が引き受け下賜金を出したものもあった。
皇室財産(御物)となっていた献納品のなかに、昭和天皇崩御に伴う相続税の物納分として国庫に収納されたものがあった。「動植綵絵」はその一部で、国庫収納後2021年に国宝に指定された。2007年の公開は、1889年の皇室献納以来、初めてのことだった。
戦後、天皇は「国の象徴」として、戦前ほどではないにしても、一般国民とは異なる扱いを受けている。それでも課税は容赦が無い。天皇とは聖なるものなのか、俗なるものなのか。天皇も相続税を負担する、物納もする。それは聖俗ということについての我々の立ち位置を端的に表している。
もちろん、立ち位置なんてものは、その時々の世情や都合に応じコロコロ変わる。しかし、人間社会の座標空間が存在するということはこれからも変わらないと思うのである。自分が暮らすこの国がいつ頃から今のこの国っぽい姿になったのか知らないが、少なくともこの国に比類するほど長命な国家は他に無い。
その比類無い長い歴史を経た国で生まれ育った経験に培われた世界観は、力づくで侵略だ、征服だ、という勝ち敗けの蓄積で形成された世界一般の世界観とはどうしたって整合しない。維新でいきなり異質の、しかも圧倒的な物量に恵まれた国々と付き合わなければならなくなり、右も左もわからないうちに、そういう支配勢力に倣って同じような振る舞いをしたら、こうなったわけだ。「こうなった」とはどうなったことなのか、敢えて書かない。
それで本書のことだが、難しくて、ちょっと何言ってるのかわからなかった。
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