季刊 民族学 179 2022年1月 特集: 働くことと生きること 仕事の人類学
ぼちぼち働くこととも生きることとも縁が切れるのだが、「働く」とか「仕事」というのは人間社会における存在証明のようなものだと思う。本書の中で「無償労働」という言葉が登場するのだが、ガクモンの世界では有償無償の別は重要なのかもしれないが、おそらく個人にとって銭が付くか否かの差異はそれ自体それほど意味のあることではない。重要なのは承認欲求の充足だと思う。承認の程度の尺度の一つとして報酬が認識されるというのが健康な自己認識の状態であって、報酬が唯一の尺度となると、無限地獄の世界に陥るのではないか。労働に限らず、あらゆる行為が多種多様な評価体系の中で展開されてこそ人間社会は安穏とした平衡を得ると思うのである。
「働く」ことが「稼ぐ」ことと同義のように捉えられるようになったのは、おそらく賃労働が当たり前になった産業革命以降のことだろう。農耕にしろ狩猟採集にしろ、作物や獲物を相手にしている限り、その相手の都合に合わせて暮らしを営まないといけない。つまり、仕事は連続していて自分の側の都合で時間で区切るわけにはいかないのである。日に三度の食事であるとか喫茶の時間というようなものが社会に定着したきっかけは産業革命で、工場や機械の稼働を合理化するために、労働者の側を機械の稼働に合わせた結果生まれた習慣だ。本来は、腹が減った時に飯を食うのである。時間になったから飯を食うのではない。よく「健康」のためには「規則正しい生活」が良いなどというが、身体への負荷の平準化による損耗低減という意味では「健康」的かもしれないが、自分の欲求に反して「規則」に拘束されることがストレスになるタイプの人にとっても「規則正しい」ことが「健康的」なのかどうか個人的には疑問を抱いている。
仕事の中身に関係なく一律に時間で区切ってみたり、単価を設けてみたりするという発想は、対象が他人事であると認識されていればこそだ。「同一労働同一賃金」というのが公正公平であるかのように思われているようだが、人間のやることに「同一」というものはない。人間がやらなくても済むくらいに細分化単純化してはじめて「同一労働」というものが想定できるのであって、そういう概念を思いつくというのはその人がそういう単純労働しか経験していないからに他ならない。人は経験を超えて発想することはできないものである。
仕事を細分化して賃労働化あるいは単位化することでマニュアル化が可能になり、それに従事する労働者は代替可能になる。或る作業がAさんでもBさんでもできるようになる。AさんでもBさんでもできるなら、人間以外のものでもできるということにもなる。人件費と機械への投資とどちらが収益性にプラスに働くか、というのは労働者保護や福利厚生にまつわる規制をはじめとする諸条件と機械の性能や耐久性との比較によるだろう。時代の趨勢としては労働者の「労働力」としての側面よりも「人間」としての側面への関心が大きくなる一方で、技術革新等で機械の性能や効率は向上が続くので、機械化自動化が進む。理屈から言えば、労働者は機械化できないようなことに集中することになるはずだが、個人の能力差というものはおそらく容易に解消されない。機械を超えられなければ賃労働にはありつけないということになる。結果として「人間」は一層厳しい状況に陥るという皮肉なことになる。
本書で特に興味を覚えたのは、イヌイットについての岸上伸啓先生の記事とモンゴル遊牧民についての堀田あゆみ先生の記事だ。
イヌイットはもともと狩猟・漁撈で生計を立てていた。1920年代にホッキョクギツネの毛皮交易が始まったことを機に貨幣経済が生活に深く関与するようになり、カナダ政府の定住化政策が始まる1950年代からは政府が設けた村落での定住生活になると共に狩猟・漁撈から賃労働へ生計の柱が変化する。賃労働でより有利に稼ぐには教育が重要視されるようになり、経験がものをいう狩猟・漁撈の有力な後継者が減少するとともに、賃労働への傾斜が進むことになる。今なお共同体の相互扶助の基礎として狩猟・漁撈は続いているものの、社会や個人の価値観は賃労働と貨幣経済に立脚したものへ変容しているというのである。
モンゴル遊牧民も貨幣経済の影響は受けているのだろうが、それよりも温暖化による自然災害の増加の方の影響が大きいらしい。遊牧の家畜は食糧であり分与可能な動産でもある。気候が安定していれば家畜は再生産されるので、遊牧は持続性の高い生活スタイルと言える。しかし、自然環境は短期的にも長期的にも常に変化する。そこで遊牧民は客人を歓迎する。その人が見聞したことを聞くことで生活に必要な情報を得るのである。「情報」としての価値を持つ話は個々の話というよりも多数の話を総合して得られる全体観の方だ。だから遊牧民は日課として互いを訪ね合い、日用品や道具類の貸借や融通を通じて互いの家計在庫を把握する。客は親戚、友人、知人だけでなく観光客や通りすがりの人も含まれる。客には乳茶を振る舞い、食事時なら食事も振る舞う。一見すると呑気だが、そうして得られる生の情報こそが日々の生活のリスク管理に重要なのである。しかし、近年は温暖化の影響もあって、自然災害が深刻化しており、壊滅的な被害を受けた遊牧民の離牧の一因となっているという。
感染症流行をきっかけにした日本の労働観の変化への考察も掲載されているが、分析の対象期間が短い所為もあってか、読んでいて物足りない感じが否めなかった。確かに、ここ2年の間の風景の変容ははっきりしているが、それは今にはじまったことではないはずだ。自分自身の日々の生活が感染症流行前後でマスクをつけること以外の変化が全く無い。だからリモートが増えてどうのこうのと語られてもピンとこないということもある。そもそも人間にとって労働とは何か、仕事とは何かという問いがないままに風景の変容を叙述しているだけのようにしか見えない文章を読まされても困惑するだけだ。ガクモンをするという仕事や労働の意味が問われているとも言える。
自分自身の賃労働についての思いは以前に書いたことから変わっていない。ここ一週間ほどは欧州での戦争のことが話題だが、軍隊や兵士の仕事とは何だろう。軍隊が生み出す価値とは何だろう。警察や消防の仕事は人々の生活を守ることで、それが生み出す価値は暮らしの安全と安心だと思う。謂わば我々の生活の固定費の一部だ。当然に警察や消防に従事する人々の人件費は税金で賄われるべきである。軍隊も警察や消防と同じと考えて良いのだろうか。このあたりのことは今回の件を機にじっくり考えてみたいと思っている。