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点前拝見

脂汗手元震えて風炉点前
(あぶらあせ てもとふるえて ふろてまえ)

風炉点前は夏の季語。かつて少しだけ茶道の稽古をしたことがある。月に一度くらいの割で裏千家の先生のところに通った。お点前をするとき、客2人くらいならなんとかなるのだが、3人となると3人目にお茶を点てる頃には足が痺れて手元も震えてくる。まして風炉の時期となると気温もそこそこに上がっていることもあり、汗が出てくる。

なぜ茶道を習ったかというと、陶芸で茶碗を挽くのに茶道がわからないと茶碗がわからないからだ。茶道は見立ての芸でもあるので、井戸茶碗のように雑器として使われていたものが名物などに祭り上げられたりする。しかし、基本には用の美がなくてはいけないと思う。実際に茶を点ててみてわかったのは、茶碗は持ちやすくなければならないという当たり前のことだった。だから、私は茶碗を挽く時に、しっかりとした高台にする。少しくらい手が震えても、茶を無事に客へ出すことができるような茶碗にする。また、そういう茶碗のほうが客も茶を飲みやすい。使いやすさが基本にある上で、形であるとか絵柄の美が美として成り立つ。これは私の考えというようなものではなく、確信だ。脂汗をかき、手を震わせながら茶を点てた結論である。

陶芸は今も続けているが、茶道は10年ほど前にやめた。理由は単純で、座るのが辛くなったから。東日本の震災があった年の年末、習っていた先生と教室のオーナーとの間でギクシャクするようなことがあって、先生が辞めることになった。先生はご自宅にも茶室があり、そこでも生徒をとっていたので、当時の私たち生徒は先生についていく派と教室に残って新しい先生の稽古を受ける派に分かれた。ちょうどその頃、私は当時の勤め先を解雇されたので、潮時だと思って茶道そのものをやめることにした。

今は、点前の方は忘れてしまったが、客の真似事くらいはまだできる。奈良や京都の寺を拝観すると、茶を点てて出してくれるところがあるが、そういう時には茶を習っておいてよかったと思う。殊に奈良の寺は拝観者が少ないところが多いので、お茶をいただきながら寺の人と雑談を楽しむことができる。尤も、そういうことは年に数えるほどしかない。

茶道の効用で忘れてはいけないことがあった。茶菓子の旨さを知ったことだ。もともと酒よりも甘いものの方が好きなのだが、茶会の主菓子にハズレはない。和菓子はこんなに旨いものだったのかと再認識したはのは茶道の稽古をしたからだ。茶会の主菓子は亭主がテーマを考えてそれに合う菓子を菓子屋にあつらえさせるのだが、菓子屋の方も店に並べて売るものとは違った気合を入れてそういう菓子を作るのだろう。とにかく旨い。

そんな一点物の菓子ではなく、普通に店で売られている菓子でも、たまに「えっ!」と思うような饅頭に出会うことがある。おそらく、そういう土地は水が良くて、茶も旨いところなのだろう。意識してあちこちの饅頭を食べ歩くわけではないので、あくまで巡り合わせで知った味だが、そういう普段の饅頭で旨いなぁと思ったのは、山梨県富士川町の竹林堂の塩饅頭だ。虎屋の菓子は旨くて当然だと思う。そういうブランドだし、そういう値段だから。竹林堂はそうではない。田舎のフツーの菓子屋で、「え、自分のとこで作ってんの?」というような構えの店なのである。こういうところにたまたま立ち寄って「あ、饅頭買ってみよう」と思って買った饅頭が旨いと、とても嬉しい。

旨い饅頭を食いながら、茶を点てて、どうでもいい話をする相手が欲しいものだ。

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