続 『宗教の起源』
人が何かを信じるとき、そこには何かしら根拠や理由となることがあるはずだ。実は偶然かもしれないのに信じた結果かもしれないと思わせる成功体験、信じないわけにはいかない同調圧力、あるいは単なる気休め。それが個人的な体験でとどまるのではなしに、集団での体験となった場合には、宗教として一つの共同体が形成される下地となるのかもしれない。
しかし、さんざん信仰を言葉や行為で表現しても御利益がないとか、不利益が止まらないといった絶望体験があると、当然ながら信仰は揺らぐ。
大航海時代を迎えてヨーロッパの軍隊が世界各地に進出するようになると、進出を受けた側の中には祈祷や呪いで対抗しようとして、敢えなく侵略を受けて植民地化されたのは歴史の現実だ。つい数十年前の戦争では我が国の兵隊の中にも弾除けの呪いとして千人針を身につける者が少なからずいたようだ。その甲斐があったのか、なかったのか。
それでも我々はクリスマスを祝い、初詣に出かけ、お札やお守りを頂き、御神籤を引いてよろこんだりがっかりしたりする。人生の節目では、天神様に詣でて学業成就を祈り、お稲荷様に商売繁盛を祈り、出雲大社やその支社に詣でて縁結びを祈念し、水天宮で安産を祈り、祇園社で無病を祈り、商売や手工業の現場には神棚を祀り、飲食店では盛り塩を供え、……と、現代においても宗教は意識するとしないとに関わらず生活と共にある。科学や資本主義が席巻している中にあっても、それなりの位置を占めている。
おそらく、生活の実利を超えて余裕や遊びがあるかどうかというところに「宗教」の収まりどころがあるのだろう。余裕と言っても必ずしも経済上の余剰ではない。宗教を信仰できるのは、目前の現実の地平を超えたところに何かを見出す思考の余裕があればこそ、しかも天命は人事を尽くして後に漸く下るとの経験があればこそではないか。だからこそ、そこに充実感や幸福感が伴うのであって、決して目先の利己心と混濁した身勝手な「信仰」からは大きく飛躍するようなものは生まれない、と思う。
例えば、何事か生活上の取引として誰かに道具の製造を依頼するとして、大きな仕事、困難な仕事ほど受注から引き渡しまでに時間を要し、同時履行というわけにはいかない。その場合、受発注段階である程度の段取りができなければ、そもそも仕事に取り掛かることができない。かつて職人仕事で前払いが原則だったのは、前金によって原材料や人手の段取りをつけるという事情があったからだ。支払いから製品の受け取りまでの宙ぶらりんの時間を埋めるのが、仕事の出し手と受け手との間の信頼関係だ。その信頼を何を以て担保するのか。いわゆる宗教という形をとるか否かに関わらず、約束を守るということについての倫理観や道徳心が当然のものとして共同体内部で共有されていなければならないだろう。そして、そうした信頼関係があればこそ、共同体全体に影響を及ぼすような大きな仕事も可能になり、共同体全体の利益にもつながるという循環が生まれることになる。
社会に信頼関係をもたらす倫理観や道徳心は「宗教」だけのことだろうか。宗教や政治といった形式以前に、自発的な倫理観がないと信頼は根付かない。鶏が先か卵が先かということになってしまうのだが、体験的に外部から強制されることは、その強制力が失われると持続しないものだろう。法則的なものがあるとも思えないのだが、利他性の強弱というのが人間関係を大きく左右することは間違いなさそうだ。
貧困に喘いでいると、足りないものを空想で補わないといけないことがままある。現実が絶望的なら、それでもこの先に何かがあると思わなければやりきれないこともある。勢い、思考の地平を幅広に構えざるを得ない。幅広の中身は個人の問題だが、眼前の現実に耐えることができないなら、他に選択肢があるだろうか。
あるとすれば、力づくでナニするわけで、現にそういう人、そういう社会はいくらもある。それが嫌で他所に移民や難民として出て行く人も、今や世界的な大問題になる程の数に上っているらしい。移民受け入れに厳しいとされるこの国でさえ、身の回りで暮らしているそういう人は少なくない。以前にも書いた気がするが、我が家では野菜を農家から直接定期購入している。毎回、野菜と一緒に近況報告がA4片面2枚ほど添えられている。それによると、ただでさえ減少が止まらない農業人口が、団塊世代の離農で更に減少しており、農作業は東南アジアなどからの「研修生」によって支えられているのだそうだ。どのような事情を抱えた「研修生」なのか知らないが、故郷を出なければならないということに安直な事情しかないとは思えない。
やはりほんとうの信仰や信心の背景には、自身を取り巻く世界の奥深さに対する畏敬とか信頼があり、自分だけではどうにもならないことを託すに足る他者が確かに存在するのだという認識があるような気がする。もちろん、それは闇雲に他者を信じるというのではなく、自身の経験に基づく判断があってのことだろう。
信頼関係には集団の構成員の数も大きな要素であるようだ。自意識、自他の別といったものがあれば、その距離感が他者を肯定的に捉えるか否定的に捉えるかを大きく左右しそうだ。
というわけで、次回は人間集団の「数」の話。