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続 『宗教の起源』

人が何かを信じるとき、そこには何かしら根拠や理由となることがあるはずだ。実は偶然かもしれないのに信じた結果かもしれないと思わせる成功体験、信じないわけにはいかない同調圧力、あるいは単なる気休め。それが個人的な体験でとどまるのではなしに、集団での体験となった場合には、宗教として一つの共同体が形成される下地となるのかもしれない。

 ヨーロッパの教会の多くは、十字軍の遠征から戻ったら、あるいは冒険に成功したら教会や教団を設立すると誓いを立てた中世の騎士によってつくられた。

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しかし、さんざん信仰を言葉や行為で表現しても御利益がないとか、不利益が止まらないといった絶望体験があると、当然ながら信仰は揺らぐ。

1340年代にヨーロッパを黒死病が襲ったときは、社会全体が良きキリスト教徒の務めを果たせなかった神罰であると多くの人々が考えた。そこで鞭打苦行者として知られる悔悛者の一団が町から町へと渡り歩き、讃美歌を歌いながら自らを鞭で打ち、神の許しを乞うた。けれども彼らが町や村に病気を広めて歩くので、ついには多くの町が門を閉じて悔悛者を拒絶するようになった。

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大航海時代を迎えてヨーロッパの軍隊が世界各地に進出するようになると、進出を受けた側の中には祈祷やまじないで対抗しようとして、敢えなく侵略を受けて植民地化されたのは歴史の現実だ。つい数十年前の戦争では我が国の兵隊の中にも弾除けの呪いとして千人針を身につける者が少なからずいたようだ。その甲斐があったのか、なかったのか。

それでも我々はクリスマスを祝い、初詣に出かけ、お札やお守りを頂き、御神籤を引いてよろこんだりがっかりしたりする。人生の節目では、天神様に詣でて学業成就を祈り、お稲荷様に商売繁盛を祈り、出雲大社やその支社に詣でて縁結びを祈念し、水天宮で安産を祈り、祇園社で無病を祈り、商売や手工業の現場には神棚を祀り、飲食店では盛り塩を供え、……と、現代においても宗教は意識するとしないとに関わらず生活と共にある。科学や資本主義が席巻している中にあっても、それなりの位置を占めている。

 また一般的な傾向として、宗教を信仰する人は幸福で、人生に満足していることがわかっている。このことは1世紀以上も前にウィリアム・ジェイムズによって初めて指摘されており、その根拠についてはあとで詳述しよう。信仰に積極的な人は、そうでない人より健康であることも確かめられている。アメリカ人の成人2万1000人を対象に行った調査で、宗教礼拝に一度も出席したことがない人は、最低でも週に一度は礼拝に行く人よりも、8年間の追跡調査中に死亡するリスクが19倍も高かったのだ。過去の42件の研究でメタ分析を行った研究もある。合計12万6000人の対象者のうち、宗教に積極的に関与する人は、一度も教会に行ったことがない人にくらべて、追跡期間内に生存している確率は26パーセントも高かった。社会人口学的な変数や持病を加味したうえでの結果である。
 つまり進化関連でよく見られる主張とは逆に、宗教を積極的に信仰することが個人レベルでの利益をもたらすことは明らかな証拠があり、ひいては個人の適応度にも直接的な効果がある可能性が高い。……(略)……もちろん宗教の自己宣伝どおりに効果があるかどうかは問題ではない。重要なのは効くかどうかだ。たとえそれがプラセボ効果であったとしても。

76-77頁

おそらく、生活の実利を超えて余裕や遊びがあるかどうかというところに「宗教」の収まりどころがあるのだろう。余裕と言っても必ずしも経済上の余剰ではない。宗教を信仰できるのは、目前の現実の地平を超えたところに何かを見出す思考の余裕があればこそ、しかも天命は人事を尽くして後に漸く下るとの経験があればこそではないか。だからこそ、そこに充実感や幸福感が伴うのであって、決して目先の利己心と混濁した身勝手な「信仰」からは大きく飛躍するようなものは生まれない、と思う。

例えば、何事か生活上の取引として誰かに道具の製造を依頼するとして、大きな仕事、困難な仕事ほど受注から引き渡しまでに時間を要し、同時履行というわけにはいかない。その場合、受発注段階である程度の段取りができなければ、そもそも仕事に取り掛かることができない。かつて職人仕事で前払いが原則だったのは、前金によって原材料や人手の段取りをつけるという事情があったからだ。支払いから製品の受け取りまでの宙ぶらりんの時間を埋めるのが、仕事の出し手と受け手との間の信頼関係だ。その信頼を何を以て担保するのか。いわゆる宗教という形をとるか否かに関わらず、約束を守るということについての倫理観や道徳心が当然のものとして共同体内部で共有されていなければならないだろう。そして、そうした信頼関係があればこそ、共同体全体に影響を及ぼすような大きな仕事も可能になり、共同体全体の利益にもつながるという循環が生まれることになる。

社会に信頼関係をもたらす倫理観や道徳心は「宗教」だけのことだろうか。宗教や政治といった形式以前に、自発的な倫理観がないと信頼は根付かない。鶏が先か卵が先かということになってしまうのだが、体験的に外部から強制されることは、その強制力が失われると持続しないものだろう。法則的なものがあるとも思えないのだが、利他性の強弱というのが人間関係を大きく左右することは間違いなさそうだ。

 人間が生まれつき向社会的でないことも問題だ。これは私たちが聖俗双方の権威や家族から圧力を受けていないと、社会の義務を果たそうとしないことからも明らかだ。……(略)……現実には、社会的、宗教的に諭されないかぎり、向社会的な行動(助けの手を差しのべるなどの利他的行動)の対象は、ごく近い家族や友人に限定される。「内輪の集団」に属する何百人かの家族や友人に対しては、見返りを求めることなく援助するが、その集団をはずれた相手には、返礼の約束や交換条件を明確にしないかぎり援助しない。このことは民族誌学の多数の研究で確認されている。とくに超大型共同体での生活は、ほかの構成員とのやりとりにおいて寛大さ——最低でも中立性——を強く要求するようになった。そうしないと犯罪や義務の不履行が、共同体をつなぎとめる脆弱な結束を引き裂いてしまうのだ。

78-79頁

オスマン帝国や大英帝国など、圧倒的な政治力を誇る多くの大国は鷹揚にも信教の自由を認めており、後者などは植民地の文化を保護する観点から、自由な信仰を奨励さえしていた。さらに重要なのは、宗教、とくに新しい宗教は、底辺から発展していくということだ。宗教の始まりは貧困にあえぐ虐げられた大衆からであって、支配層ではない。……(略)……国家が宗教心を利用するには宗教心は国家の成立に先立って生まれている必要があり、国家(あるいは支配層)の利益のために宗教的傾向が生じることなど起こりえないのである。

86-87頁

 上から力で押さえれば、大衆は行儀が良くなる(少なくとも支配層に都合の良い形で)。だが、押さえつけられる側も何とかして裏をかこうとするから、やがてほころびが生じる。これとは対照的に、共同体の構成員が自発的に関わって生まれた気風は、少々のことでは揺るがない。誰かに命じられたのではなく、自身がそうしたいと思っているからだ。

90頁

貧困に喘いでいると、足りないものを空想で補わないといけないことがままある。現実が絶望的なら、それでもこの先に何かがあると思わなければやりきれないこともある。勢い、思考の地平を幅広に構えざるを得ない。幅広の中身は個人の問題だが、眼前の現実に耐えることができないなら、他に選択肢があるだろうか。

あるとすれば、力づくでナニするわけで、現にそういう人、そういう社会はいくらもある。それが嫌で他所に移民や難民として出て行く人も、今や世界的な大問題になる程の数に上っているらしい。移民受け入れに厳しいとされるこの国でさえ、身の回りで暮らしているそういう人は少なくない。以前にも書いた気がするが、我が家では野菜を農家から直接定期購入している。毎回、野菜と一緒に近況報告がA4片面2枚ほど添えられている。それによると、ただでさえ減少が止まらない農業人口が、団塊世代の離農で更に減少しており、農作業は東南アジアなどからの「研修生」によって支えられているのだそうだ。どのような事情を抱えた「研修生」なのか知らないが、故郷を出なければならないということに安直な事情しかないとは思えない。

やはりほんとうの信仰や信心の背景には、自身を取り巻く世界の奥深さに対する畏敬とか信頼があり、自分だけではどうにもならないことを託すに足る他者が確かに存在するのだという認識があるような気がする。もちろん、それは闇雲に他者を信じるというのではなく、自身の経験に基づく判断があってのことだろう。

 一般的には、信頼できる相手を列挙すると15人前後でおさまることがほとんどだ。ところが宗教礼拝にほぼ毎日出席する人は、信者仲間も含めて数百人規模になる。礼拝の出席者ほぼ全員と強い絆を感じていることになるのだ。日常的に顔を合わせ、おたがいによく知っているだけでなく、儀式にともに参加しているためだろう。
 宗教活動に積極的な人ほど、多くの人とのつながりを感じ、自分を支えてくれると思えるようだ。その結果、幸福感が増して人生への満足度も高くなる。

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信頼関係には集団の構成員の数も大きな要素であるようだ。自意識、自他の別といったものがあれば、その距離感が他者を肯定的に捉えるか否定的に捉えるかを大きく左右しそうだ。

というわけで、次回は人間集団の「数」の話。

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熊本熊
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