『拝啓天皇陛下様』 DVD
ダワーの『敗北を抱きしめて』の序にこのような記述がある。
その「望ましい人生」とか「良い社会」とはどのようなものなのか、ということを考える取っ掛かりとして『拝啓天皇陛下様』は格好の材料を提供している気がする。本作のDVDには公開当時(1963年)の予告編も収められているのだが、そこに現れた「建国以来のスーパー喜劇」という文句に眼を見張ってしまった。「建国以来」というのはおそらく「天皇」と対応している。当然、「天皇=神」の時代にこのような作品を公開したら不敬罪で関係者一同刑務所行きだし、そもそも制作が許されない。逆に今のような無闇に表現の自主規制が厳しい時代でも本作のようなものの公開は難しいかもしれない。戦争とそれに続く混乱を乗り越え、新たな体制ができつつある中で世情にようやく希望が見えてきた昭和30年代ならではの映像表現であるような気がした。
物語の中で、貧乏・無学・善良な主人公、山田ショウスケは徴兵で入隊した軍隊に居心地の良さを実感する。その「良さ」とは食うに困らないことである。世の中全体が不景気であったり、総じて貧困であったという経済環境に加えて、山田は無知と意思疎通の行き違いから窃盗で逮捕され懲役を受けたという事情もあり、職に就くことがままならず貧困から抜け出すことができなかった。「ショウスケ」というのは山田が自分の名前を漢字で書くことができなかったということだ。軍隊に入って最初に軍服等を受け取る時に帳面に受け取りの署名をするのだが、彼は自分の名前を漢字で記入することができず少し悩んだ末にカナで書く場面がある。いわゆる「無筆」とまでは言えないまでも、一応の義務教育が行われるようになった維新後の日本でも「義務」から漏れて学校教育を満足に受けることのできなった人が少なくなかったのは事実だ。幸い、最初の徴兵の時の上官が彼の人としての良さを高く評価しており、兵隊の中で徴兵前に学校の教師をしていた者に山田への読み書きの指導を命じ、徴兵期間中に山田はなんとか文字の読み書きができるようになった。また、その上官は山田の満期除隊の時に自分の知り合いの果樹園への就職の世話をし、紋付羽織袴と下駄の一揃えと小遣いを新たなな門出の祝いに渡す。そうした理解者がいても、山田はシャバでのうまく暮らすことができなかったようだ。
除隊の後、中国との戦争が始まり、山田は再び召集される。戦争は泥沼化していたものの対米戦前で日本にはまだ多少の余裕があり、山田は規定通り除隊となる。その除隊の前夜、シャバでうまく生きることができない山田は除隊を特別に免除してもらおうと天皇陛下に手紙を書く。その手紙の書き出しが本作の題名「拝啓天皇陛下様」なのである。その手紙を見せられた戦友が、その手紙を取り上げて破棄、規定通りに除隊するよう山田を諭す。当時、天皇への直訴は犯罪なのだ。
戦争はさらに長期化し人々の生活はいよいよ困窮の度を深める。山田はまた徴兵され中国の戦場へ送られる。無事に終戦を迎えるが、シャバで器用に生きることができるわけではない。それでも、何かと頼りにしている戦友が暮らす長屋に出入りしているうちに、そこで暮らしている戦争未亡人に惚れてその人と世帯を持とうとする。稼ぎがないといけないということで見つけた仕事が、華厳の滝の投身死体を引き上げるというものだ。身分は公務員だが、月給に加えて一体100円という歩合が付く。当時としては破格の待遇だ。しかし金さえあれば、というわけにはいかず、その恋は実らない。その後、死体運びを辞めて、日雇の土木工事作業員などをして食い繋ぎ、行きつけの飲み屋で働いていた別の戦争未亡人と知り合い、結婚することになった。その前夜、その飲み屋に出かけて泥酔し、千鳥足で家に帰る途中、大型トラックにはねられて帰らぬ人となる。
主人公が自分なりに一生懸命やっても、それが報われないままに生涯を終えるという話である。そう書いてしまうと悲劇に思えるのだが、映像作品としては喜劇的に仕上げてある。喜劇であるかもしれないが、一般庶民の暮らしは厳しいが軍隊では食うに困らない、とか、天皇を神のように崇める姿など、かなり風刺色の強い作品だ。主人公が最後に死んでしまうことで、救いが無いと見えないこともない。世間では無闇に甘ったるい話や単純な成功譚を「幸せ」と呼ぶ傾向があるように見えるのだが、なぜそういう図式化ができるのか私は素朴に疑問に思う。
巷では食うに事欠くようになっていても、少なくとも対米戦が始まる頃まで、軍隊では毎日三度の飯にありつくことができた。兵舎での食事のサンプルが例えば千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に展示されているが、今見てもなかなか立派なものだ。貧困に喘いでいた人間が、三度三度これほどのものを食べることができたとすれば、その貧困の構造問題など吹き飛んで「天皇陛下万歳」となるのは無理がないと思う。
ふと、映像翻訳の勉強をしていた当時、映画館で観た韓国映画『トンマッコルへようこそ(原題:웰컴 투 동막골)』を思い出した。細かいところまでは記憶にないのだが、舞台となっている山奥の村の村長が村人たちを前に村長の務めを語っている場面がある。そこで「村長の仕事は村人を飢えさせないこと」と言うのである。ハングルはわからないので字幕での記憶なのだが、その場面が妙に印象に残っている。これは社会としてとても重要なことではないかと思うのである。つまり、山村の村長であろうが、大国のトップであろうが、会社の社長であろうが、世帯主であろうが、人の上に立つ者の役割は下の者を飢えさせないことに尽きるのではないか。ほんとうは、政治も経済もそれにまつわる諸事も全てその一点だけのために運営されるべきものではないか、と思うのである。飢えていなければ、人は大抵のことは我慢ができる。
トンマッコルの村長がその後どうなったか、全く記憶に残っていないのだが、社会を安定させるには、この人についていけば飯が食える、と思わせることほど重要なことはない気がする。その点で、「天皇」に対する信頼感を醸成したのは、知識教育でもなければ、外部からの強制的圧力でもなく、徴兵制で軍務に就いていた間は飯が食えたという確かな経験だったのではないか、と本作を見て思ったのである。
戦中戦後にかけて日本国民は飢えていたにもかかわらず、そこで天皇制が終わらずに、現在に至るのはなぜか。ダワーの『敗戦を抱きしめて』にはGHQが天皇を戦争責任から隔離することで占領体制の安定化を図ったことが記されている。確かに、それは天皇制継続の大きな要因の一つではあるのだろうが、人々の飢えが閾値に達しようかという頃に朝鮮戦争が勃発して戦争特需が発生し、日本経済の回復と復興が顕著に進行したことと無関係とは思えない。要するに、天皇の運が良かったということだ。
戦争で日本の主要都市は全て焼け野原となった。終戦後、まずはその復興が行われるが、生産力が不十分で需給バランスが不安定な状態が続き、激しいインフレとなる。1948年暮に米国は日本の「経済安定九原則」を発表、翌年早々にジョセフ・ドッジを筆頭とする使節団を日本に派遣する。「ドッジ・ライン」と呼ばれる均衡財政が施行され、インフレは収まったが不況が深刻化した。ドッジ・ラインは需要を殺すことでインフレを抑制する政策なので、需要減=不況は当然だ。不況回避として期待されるのは、教科書的には殺した需要を補って余りある外需=輸出だが、「世界大戦」だったのだから輸出相手となる内需旺盛な国などあるはずがない。
結果としては、その安定恐慌から日本を救ったのは1950年6月に始まった朝鮮戦争による米国からの特需だった。絶妙なタイミングで隣国で戦争が始まり、しかも需要の主は当時唯一確かな信用のあった米ドルの国だった。その上、需要の主体は武器、つまり工業製品で、殊に造船、自動車、精密機器といった部品の裾野の広い分野だ。朝鮮戦争は東西冷戦の一環でもあるので、需要は東側にも発生する。日本から東側への輸出は流石に無かったであろうが、世界全体の需給が東西冷戦に関連する局地的かつ大規模な戦争の発生で大きく需要増加へ変化した。こうした状況は当時の日本では「天佑神助」と呼ばれたそうだ。朝鮮戦争は1953年に休戦となるが、特需で復興が進んで経済のサイクルが動き出し、その後の高度経済成長へとつながる。
山田は過酷な戦中戦後を生き延びたが、その「天佑神助」の恩恵に預かることはとうとうできなかった。しかし、人生の最後に伴侶に巡り合った。それで良かったのではないかと思うのである。真っ正直に生きて、頼ることのできる友人知人に恵まれ、世帯を構える程度の暮らしができるようになった。たまたま不慮の事故で、それが突然終わってしまったが、昨日より今日、今日より明日、という希望を持つことができた。それでいいのではないかと思うのである。もっと稼いで、もっと長生きして、もっと、もっと、もっと、ということが「幸せ」であるとは私には思えないのだ。人生が喜劇で何が悪い、とも思うのである。
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