東直子 『とりつくしま』 ちくま文庫
『広辞苑』を紐解いてみたら、「とりつくしま」という見出し語はない。「とりつく【取り付く】」という見出し語の下に「取り付く島もない:たよりとしてすがる手がかりもない。云々」とあった。この辞書では「とりつくしま」という何か特別に意味のある言葉ではないらしい。
よくオカルト映画とかSFに登場する化け物は、なんだかんだ言っても人間の姿をベースにしていることが多い気がする。たぶん、そうじゃないと怖くないからだろう。例えば、古井戸から貞子が出てくると怖いけれど、古井戸そのものが貞子であったとしたら、怖いかもしれないけれど、鈍感な人は生涯その井戸が化け物とは認識できないのではないか。『エクソシスト』でリンダ・ブレアの首がぐるぐる回ると怖いけれど、野鳥観察会でフクロウの首がぐるっと回っても「おっ、回ったぁ」と感心するのだろうが、怖いとは思わないだろう。
本書の「とりつくしま」とは、亡くなってしまった人がこの世に心を残す手立てとして無機物に宿る、その宿主のことである。本書で挙げられているのは以下の10品目だ。
ロージン
マグカップ
ジャングルジム
扇子
名札
補聴器
日記帳
マッサージチェア
リップクリーム
カメラ
それぞれの品物にとりついた亡霊が残された人々を見守るという話である。どの話もしょーもないのだが、どの話もそれぞれにいい。なにしろ、霊が宿るものが日常生活に溶け込んでいる道具類なので、霊の方はそこで暮らす生きた人々を見てあれこれ思うのだが、生きている方は道具に何かがとりついているなどとは思いもよらないので無防備で正直だ。その取り繕いのない姿に人というものの何かが現れている。
ロージンとは私のような人のこと、ではなくて、野球でピッチャーが手の滑り止めに使う石灰を入れた布の袋のことだ。そこに取り憑いたのは40代で病気で亡くなった女性。中学生の息子が軟式野球をやっていて、中学生最後の大きな試合を控えている。息子はピッチャーだ。彼女はロージンにとりついて息子の試合を間近で見守るのである。
無造作に応援したり叱咤激励したりできるのは、無責任だからということもあるだろう。本当に相手のことを理解し、相手のことを想えば想うほど、言葉なんてものは出てこないのではないか。
「がんばってね、か。」
自分が死んでみて、「がんばる」ことの意味をようやく考えられるようになったということなのだろう。想いをかける相手との適切な距離が見えてきたということだ。言葉は伝えなければならない時に出てくるものだ。「がんばれ」は相手に対する素朴な好意の表明であり、そう言わなければならない場面というものは、やはり、実生活の中にはあるだろう。しかし、いつもいつもとりあえず「がんばれ」でいいのか、ということだ。流れに任せて「がんばれ」と言い放つ安直さこそが相手との距離感を的確に言い当てている。
「がんばってね、か。」
できることなら、生きているうちにそういうことを推し量る姿勢くらいは持っていたら、あるいは人生が大きく変わる、かも。
孫に買ってやったカメラにとりついて、孫と同じものを見つめてみたいと思った女性がいた。拍子の悪いことに、そのカメラにとりついた後に、孫はカメラを中古カメラ店に売ってしまう。その店で、そのカメラに惚れ込んで買ったのは、一人暮らしの老人男性だった。だから、せっかく孫のカメラにとりついたのに肝心の孫に会うことができない。だけど、、、、というのが最後のカメラの話。
しかし、そのカメラの新たな持ち主をカメラから眺めていると、それはそれで楽しかったりする。桜の花の咲く頃のこと、カメラの主は桜を撮りに出かける。
フィルムカメラを使うようになって、とりあえず撮っておくということができなくなった。フィルムが有限だし、フィルムも現像も安くはない。週末くらいしか撮影はしないのだが、それでも購入してから2年近くともなれば、シャッターを切ったのに写っていないということは無くなった。しかし、我ながらつまらねー写真だねぇ、と呆れてしまうことがちょいちょいある。そういう意味ではまだまだ歩留まりが良くない。さすがに「観光案内所の絵葉書みたい」な写真は撮らないようになったが、工夫がないのは相変わらずだ。私のフィルムカメラも中古なので、ひょっとしたら誰かがそこにいるかもしれない。だとしたら、まことに面目ないことだ。そして思ったのである。
がんばるから。
何を、と問われても困るのだが、とりあえず「がんばるよ」、と思うのが私とカメラの今の関係性を象徴しているということだろう。あるいは、自分が生きる覚悟の軽さのようなものともいえる。でも、そのうち私のカメラに宿っているかもしれない人も本書の話に出てくるカメラのようになるかもしれない。
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