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月例落選 2022年5月号

俳句の方は1月末日消印有効で短歌は2月15日必着分。時間順で俳句から。

題詠の兼題は「真」または「夜」。今回は「夜」を選んだ。

雪化粧夜の名残の烏かな

烏だけ雪に残して夜が明けた

東京は殆ど雪が降らなかった。雪が降れば住まいの窓から見える小さな公園が雪に覆われる。今暮らしている団地には様々な鳥がやって来るので、実は烏は遠慮してあまり近付いて来ない。だから頭の中でこしらえた風景なのだが、夜が開けて、雪で真っ白になった公園が朝日に照らし出されたところに、夜の闇がそこだけ残ってしまったかのように烏が一羽ポツンと居たら面白い風景だろうと思っただけだ。

雑詠の方は思いつくままに詠んだだけ。

去年より粒が残った味噌仕込み

季語は「味噌仕込み」(冬)。毎年寒の内に味噌を仕込む。このところ大豆と糀を2kgずつ、それに塩を800gほど使う。大豆は茹でるので、水分を吸ってずっと重くなる。それらを大きな鍋のなかで720mlのガラスの空き瓶の底を使って押し潰してペースト状にするのである。これがなかなかの重労働で、齢を重ねる毎に体力が落ちる分だけ出来が粗くなる。もちろん、ざっくり混ぜて、少量ずつフードプロセッサーにかけるとか、ビニール袋に入れて足で踏むとか、楽にきれいに作る方法はある。しかし、そういうのは嫌なのである。前年より潰しきれない大豆が残るのを見て、一年という時の自分の内部での経過を感じたいのである。つまり、そういう現実を目の当たりにすることが生きる面白さだと思うのである。

枯芝に餌を見い出す鳥の群

季語は「枯芝」(冬)。築55年のレトロ団地で暮らしている。建物はボロボロだが、敷地を贅沢に使っていて草木がほどほどに手入れされて生い茂っている。常緑樹や冬も青々としている草もあるのだが、総じて枯れ野だ。それでも枯れ草の間に何か餌になるようなものがあるらしく、時々鳥の群が何かを啄んでいる。

ガス代の知らせを前に懐手

季語は「懐手」(冬)。結構まめに出納帳をつけている。さすがに帳面ではなくエクセルで簡単な表を拵えている。公共料金は1日単位の数字もわかるようにしてあるのだが、今年はガス代が高い。だからといって、別に節約をしようとは思わない。無駄に使っているつもりはないし、残り少ない人生なのにギスギスするのも嫌だ。ただ、水道やガスの使用量の知らせがドアポストに入っていると、そのエクセルのシートをいじって遊びたくなるだけだ。今年はこの調子でいくと夏場でもガス代があまり下がらないかもしれない。夏はどうやって懐手をしようかしら。

短歌の方の題詠のお題は「家族」。

誕生日漏れる溜息堪えつつ引き攣る笑顔我が家の平和

恋焦がれ築きし家庭揺らす風溜息一つ止めを刺して

少しだけ余計に無沙汰しただけで居場所失う楽しい我が家

素直に家族讃歌のようなものを詠めばよさそうなものを、と自分でも思うのだが、まぁ、仕方がない。歌なのだから美しくあるべき、との考えも当然あるだろう。しかし、綺麗事はその背後のドロドロの方が気になってしまう質なのでこうなってしまう。

1995年の刑法改正まで、日本では尊属殺に加重規定があり、一般の殺人事件よりも罪が重かった。つまり、殺人事件において加害者と被害者とが家族であるケースの方が赤の他人同士というよりも多かったから、刑罰を重くすることでその抑止を図ろうとした、ということだろう。身近であればこそ摩擦も増えるのは当然で、そこに親子であるとか兄弟であるとか年長年少の尺度が入り込むことで「上」との自覚がある側が自分の中で想定あるいは妄想した権力を行使するのは、程度の差こそあれ、広く観察できる現象だと思う。それが過剰になると「DV」などと呼ばれる事象になるわけだ。さらにその権力あるいは暴力の行使が過剰になると、行使される側が犠牲になるという事件になる。また、窮鼠猫を噛む、というようなことになって行使する側が反撃されて事件になる、というケースもある。家族というのは逃れようのない関係なので、そこに生じた確執が行くところまで行ってしまうということでしか解消しない状態に陥りやすい。ましてや、人は生まれることを選択できない。否応なくその家族関係に置かれるのである。ある意味、宿命的な逆境に悩む人は少なくないのではないか。95年の法改正で尊属加重規定が廃止されたのは、窮鼠猫を噛むパターンの加害者に対する情状酌量余地を設ける意味合いがある。

「家族」の歌、ということで家族讃歌が並ぶことに何の不思議もないのだが、家族は讃歌で表現されることがデファクトというのは怖い気もする。

雑詠は2月の投稿締め切りの頃に上野公園に出かけた時のことを詠んだ。

沫雪を騒ぎ立てたる街の人溶けて流れて影も残らず

首だけで信仰集め銭集め奇蹟の手本南無阿弥陀仏

寒牡丹梅に蝋梅三椏が黄金社を囲む立春

まだ若き枝を揺らして頬白が反り身で唱う誕生祝い

東京では雪が降ると大騒ぎになる。しかし、すぐに溶けてしまって、その騒ぎすらも幻のように消えてしまう。騒いだ人々も雪と共に溶けていなくなってしまうかのような儚さがある。何かに根付いた生活というのが無いのが都会の暮らしであるような気もする。もちろん、その身軽さあればこそ、大きな事業、大きな金、が軽々と動いて天下を左右する。

力のある仏像は五体満足である必要はない。頭だけで人を集める仏像が現にある。興福寺友の会というものに入っているのだが、きっかけは芸大美術館で開催された「仏頭展」に置かれていたチラシを手にしたことだった。うっかり入会してしまい、せっかく入ったのだからと、翌年から毎年奈良に出かけるようになった。

2月は母の誕生日で、韻松亭で昼に食事をした。その時に東照宮の牡丹園が開園していたので入園して牡丹を眺めてきた。東照宮の御社は金ピカだ。また、立春の頃で木々には葉はなく、枝に留まっている鳥の姿も目についた。ホオジロは囀る時に上を向くので反り身に見える。その時に見かけた鳥がホオジロなのかどうか知らないが、枝を揺らして反り身で囀っていたら楽しいかなと思っただけだ。

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