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月例落選 2022年4月号

今月からは『短歌』と『俳句』のダブル。俳句の方は12月末日消印有効で短歌は1月15日必着分。時間順で俳句から。

題詠の兼題は「望」または「砂」。

砂を噛む話ばかりで年暮るる

季語は「年暮るる」(冬)。『広辞苑』によれば「砂を噛むような」は「味けないことや感興をそがれることの形容」の意。具体的にどうこうというのではないが、「今年もロクなことがなかった」というだけのこと。何かを伝えたいとか詠みたいという気持ちがそもそも感じられない句。まぁ、無いものはしょうがない。尤も、無いなら詠まなければ良いだけのことでもある。

砂漉しのまろやかな湯で初点前

季語は「初点前」(新春)。「砂漉し」は文字通り砂で濾過すること。水には味があって、例え水道水であっても、一手間加えて鉄瓶で湯を沸かすと本当に美味しくなる。そういう湯で点てた茶は何物にも代え難い美味さだ。年改まり寒いながらも新年という華を感じる時期に、清められた空間で渾身の一杯の茶をいただくことの至福。想像しただけで、とりあえず生きていてよかったと思う。しかし、やはり年の暮れに「初点前」を詠むのはいかがなものかと思う。

冬至祭何があろうと馳せ参じ

冬至祭新たな社またひとつ

冬至祭お宮の隣くじ売り場

季語は「冬至」「冬至祭」(冬)。冬至には早稲田の穴八幡と放生寺に参詣して「一陽来復」と「一陽来福」のお札をいただく。一般に寺社のお札というのはそれらしいことが書かれた紙片あるいは板を和紙で包んだ形態なのだが、ここは金柑の種、銀杏、柚子の種が包まれている。だから特に「一陽来復」の方は筒状のお札だ。これは何を意味しているかというと「金柑 銀杏 柚子」→「金 銀 ゆず」→「きん ぎん ゆず」→「金銀融通」。つまり金運のお札だ。単なる言葉遊び、洒落、冗談と言えばそれまでなのだが、縁起を担いでいるには違いない。また、自営業の人々の間では結構ご利益があるという評判もあるようで、特に冬至の日は見出し写真のように参拝客の長蛇の列ができる。行列嫌いの私も、この日ばかりは行列大好きに変心してお札を受ける列に並ぶ。昨年の冬至には境内に新たに立派な御社が建ち、少子化で全国的に寺社の経営環境が厳しいと言われる中にあって、稀有な存在感を示した。冬至と言えば年末ジャンボの発売期間中でもあり、穴八幡と地下鉄早稲田駅の出口の間にある銀行の宝くじ売り場も忙しそうだった。

短歌のほうの題詠のお題は「回る」。

朽ち果てた回転木馬睨みつけ廃墟写真の構図を探る

観覧車回り始めの昂揚は十七分で幻と化す

見納めは轟音立てて迫り来る回転車輪輝く鉄路

寺にお参りをしたり美術館や博物館にも比較的頻繁に足を運ぶ方だ。仏像を拝むたびに思うのだが、回転したら面白そうだ。例えば十一面観音の面がそれぞれに回転したら何かが起きそうな気がするではないか。単純に首のところに小型モーターを仕込んで電池かなにかで駆動することを想像しているのだが、仕掛け人形のようなものができるならなお良い。しかし、そういう妄想を歌に詠むことは今回はできなかった。

遊園地には哀愁を感じる。何故だかわからないが、無理に拵えた「楽しい」という仕掛けが、現実の人生の様々な哀しみの裏返しのように見えるのである。回転木馬なんかその最たるものだ。ぐるぐる回って、しかし、それが何かを産むわけではなく、刹那の昂揚の虚しさが木馬像に象徴されているように見えてしまう。ましてや、営業を終了して打ち捨てられた遊園地の廃墟を想像すると哀しみ全開で、そういうものを映像に残すことに逆に興奮してしまいそうだ。

遊園地には観覧車もある。遊園地でなくても観覧車だけあったりもする。東京ディズニーランド近くにある葛西臨海公園の観覧車は一周17分だそうだ。若い二人が下心満々で乗りこんで、しかし、17分では中途半端な盛り上がりで、却って心が離れてしまったりする、こともあろう。

雑詠は以下の四首。

初雪に足を取られる通勤路辿り着いたら精魂取られ

ATM故障はいつも「出ない」系「出続け」故障あれば許そう

焦点も露出合わせも全自動それでピンボケ「趣味」の写真

全自動日々の暮らしは「ピッ」か「ポチ」電気が切れてお先真っ暗

今年も東京に積雪があった。雪国の人から見れば「雪」の範疇に入らないようなささやかな降雪なのだが、不慣れな身には大層堪える。

形あるものは必ず壊れるのだが、壊れることが許されないものもある。銀行のATMなどはその例だが、不思議なことにATMが故障して現金が果てしなく排出された、という話は聞いたことがない。「故障」=「出ない」ということらしい。便秘専門で下痢は経験がない、という人は多分いるだろう。しかし、便秘の経験はないが下痢はある、という人だってあるはずだ。どちらの場合も起こるのが自然というものだろう。だからATMの故障は本当に「故障」なのか、実は背後に何か企みがあるのではないか、と私は疑っている。

写真撮影が趣味という人は多いようだ。よくゴツいカメラをぶら下げた人を見かける。なんとなく高齢の男性が多い気がする。中にはモータードライブの付いたカメラを構えている人も見かける。普通に撮影すればそこそこの写真が撮影できるようにできているカメラを使って、激しく連写して、その全てのコマが悉くピンボケだったら、それはそれとして面白いかもしれない。なんて想像するのも楽しい。

大きな地震や水害でインフラの障害を経験し、なんでも「ピッ」で済むようにした生活の脆弱性を嫌というほど経験しているはずなのに、IoTだのDXだの、我々の暮らしはそういう生活に向かい続けている。本当の「進歩」とか「進化」というものがどのようなものなのか、実は誰もわかっていないのかもしれない。

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