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小堀鷗一郎 『死を生きた人びと』 みすず書房
世間は幻想に満ちている。1日三度飯を食う、規則正しい生活、若々しくあるべし、前向きな考え、などなど。しかし、どれも近代以降に生まれたものだ。産業革命を機に巨大な工場設備を効率よく稼働させるべく、工場労働者の暮らしに機械設備稼働に都合の良い周期性を与えただけのことだ。生まれたら必ず死ぬというサイクルの中で、そもそも健康であることにどれほどの意味があるのだろう。腹が減れば飯を食い、眠たくなったら眠る。身体の欲求に即す方が自然で健康的ではなかろうか。社会集団を律するためには、個々の構成員の行動が予見可能であったほうが、支配管理する側からしたら都合が良い。できることなら軍隊のように上意下達で物事が動いて欲しいだろう。そのためには個人も一定の運動能力と知能を持っていないといけない。駒の動きの統率を取るには、スイスイ動く駒と梃子でも動かないような駒が混在しているとマズいのである。各人は集団の規則を進んで守るようでなくてはいけない。創造だの創作だのを個人が好き勝手にやるようではいけない。そういうことは比較的適性の強い人を煽てて「才能」があるように見せて別枠に置いて衆目を納得させることで、圧倒的大多数の大衆を諦めさせて上意下達のサイクルに押し込んでおくのが優れた統治というものだ。そのためには、大衆には世の中に「正解」というものがあると信じ込ませないといけない。そして「正解」に到達しないこと、間違えることを恐れるように仕向けないといけない。近頃、「自粛警察」という言葉を聞くようになったが、これぞ大衆の鏡だ。
さて、本書の著者は訪問診療医だ。たくさんの人を見送った。そうした中から42の事例が紹介されている。たった42でも、実にさまざまな死があるものだと思う。人にそれぞれの生き方があるように、それぞれに相応しい死に方というものもあって然るべきでる。しかし、生の方が規格化されているのだから死の方だって似たようなことになる。どっちか片方だけ満足のいくように、なんてことになるはずがない。「死ぬときくらい、好きにさせてよ」なんていうコピーがあったが、好きに生きられないのに好きに死ねるわけがない。個人も世間も都合の悪いことを外部化して、本来あるべきではないこと、のように見せかけるのものだが、「認知症」もどこまでが本当の「病気」なのだか知れたものではない。都合の悪い老化を「病気」ということにして、本当はそんな人じゃなかったと本人とかその周囲が思い込みたいだけ、というのも案外多いのではないだろうか。
世間の手を煩わせないのが死に方の「正解」であるとするなら、いわゆる「ピンコロ」などその理想だろう。よく生命保険のセールスが「ご家族に迷惑がかからないように」などと抜かす。大きなお世話だとは思うものの、気が小さいので、セールスの気合いに圧倒されて高い保険料を何年も搾取されるハメになる。昔、仕事で保険会社を顧客として抱えていたので、「営業協力」で随分無駄な保険料を払ってきた。そういう仕事を離れて義理がなくなったので、片っ端から解約したがどうしても解約できない保険が一つ残った。その保険会社の担当者がスゴイのだ。更新などで会う約束が入る。会うまでは絶対に解約しようと思っているのだが、なぜか更新してその人に礼などを言って別れることになる。しかし、次こそは、と今も思っている。
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