山川方夫 著 日下三蔵 編 『箱の中のあなた ショートショート集成1』 ちくま文庫
たまに行くマッサージ店が入居している駅ビルにある書店で購入。ここはいつも何かしらミニ企画のようなことをやっていて、そこに並んでいるものを手に取ってしまう。このマッサージ店に足を運ぶようになったのは5月に入院した後のことなので、まだ習慣になるほどではないのだが、ここでこんなふうに購入した本を読んで既に何本かこのnoteを書いている。
あまり本を読むほうではないのだが、特にこういう文芸系のものを読むと、若い頃にはこういうものを楽しめなかっただろうと思う。今だから、平凡なりにそれなりの生きた時間を経たから、小説だとか詩の類を読んで、そこに何がしかの引っ掛かりを覚え、それを切掛に想いが湧いてくるのであって、自分のガキの時分だったらそもそもひとつの物語を読み通すことができなかっただろう。
ところが、不思議なことに学校の教科書に載っていたもののなかに忘れ得ぬ話があったりする。それについても以前にこのnoteに書いた。本書に収載されている『夏の葬列』は中学校の教科書に載っているらしいのだが、もし、自分が子供の頃に読んだとしたら、やはりいつまでも記憶に残っているかもしれない。
生身の人間の標準型が聖人君子であるはずはない。もし、そうであるならば、宗教というものは存在しないであろうし、世界はもっと穏やかであるはずだ。ここ数ヶ月、都知事選挙、衆議院選挙、米国大統領選挙、兵庫県知事選挙と人間社会の根幹に関わる行事が続いているが、ああいうのがその人間の集団の代表なのだから、我々はもう終わったなと思う。ま、そんなことはともかくとして、一人の人間の中に渾然一体となって様々なものが蠢いているはずだ。それは個々の要素に特定の色があるわけではなく、見方により、時と場合により、関係性により、どのようにも見える。そういう人としてのありようを印象深く描き、読む者に生きる上での覚悟を促すところに文芸というものの値打ちがあるのだと思う。自分にとって『夏の葬列』はそういう値打ちのある作品だ。
『夏の葬列』は1945年8月14日、都会から疎開児童を受け入れていた地域が舞台だ。私が見聞きする限りにおいて、疎開児と地元民とが友好的に関係したという話は聞いたことがない。もちろん、私が生まれたときには戦後17年が経過していたので、戦争だの疎開だのを自分が経験したわけではない。しかし17年といえば、親や祖父母といった身近な人々は戦争を経験している。私の場合、親はこの話の主人公同様に小学生で、祖父は徴兵されるには歳をとりすぎていて、伯父のなかに従軍経験者がいた。そういうなかでことあるごとに聞かされた戦争体験談が私の戦争体験の全てだ。そしてそういう話に通底しているのは、切羽詰まった時の人のありようだ。『夏の葬列』は戦時中のどこかの地方で仲良しの疎開児二人が機銃掃射に遭遇し、逃げ惑うなかで片方は相手を庇おうとし、もう片方は自分だけ助かろうとしたということを、助かった側が語ったものだ。
『夏の葬列』の主人公である「彼」は20代半ばで、大学を出て就職している。出張でたまたま幼年時代に疎開していた町に降り立つ。時間があったので、少し駅の周りを歩いてみることにした。そこで葬列に出会う。たちまち、「彼」には疎開していた時の記憶が蘇る。その時も年上の疎開児仲間の「ヒロコさん」と一緒にいると、遠くに葬列が通りかかる。葬列に行くと子供は大きな饅頭がもらえるというので、二人で葬列まで競争する。「彼」は芋畑を突っ切り、「ヒロコさん」は畦道を行く。そこへ敵戦闘機が2機飛来して機銃掃射を浴びせる。「ヒロコさん」は白い服を着ていた。どこからともなく「おーい、ひっこんでろそこの女の子、だめ、走っちゃだめ!白い服はぜっこうの目標になるんだ」との怒鳴り声が聞こえる。すると機銃掃射に動転して動けなくなっている「彼」に「ヒロコさん」が覆い被さって「さ、早く逃げるの」と助けに来る。ところが「彼」は「よせ!向こうへ行け!目立っちゃうじゃないかよ!」と「ヒロコさん」を突き飛ばしてしまう。そこに轟音が響き「彼の手で仰向けに突きとばされたヒロコさんが、まるでゴムマリのようにはずんで空中に浮く」のである。彼女は下半身を血で染め、近くにいた大人たちによって即席の担架に乗せられてどこかへ運ばれる。その翌日、戦争は終わり、彼は彼女のその後を聞くことなく町を去る。そして、今、その町で葬列に出会うのである。で、その葬列の主は、、、という話だ。
この話の終盤は懺悔のように読めなくもないのだが、人はそう単純なものではないとも思う。人の自我とかエゴというものは自分が思っているよりもはるかに深く激しいものだ。だからこそ、人類はその誕生から20万年の間に地球上の他の生物種を激烈に駆逐しながら今日現在我が物顔でこの星に君臨し、自身の異常繁殖が原因で生態系に不具合を生じさせているのを知ってか知らずか他人事のように温暖化対策を説く。自分が生きるか死ぬかというほど切羽詰まった経験はないので、私は主人公を批判することも擁護することもできない。ただ、人の暮らしの現実というのはそういうエゴによって動くものではないか。それがいいとか悪いということではなしに、それが現実というものだろう。
ここではどうでもよいことなのだが、1945年8月14日に空襲があったのは以下の地域だ。
大阪(大阪府)
岩国(山口県)
光(山口県)
熊谷(埼玉県)
伊勢崎(群馬県)
小田原(神奈川県)
土崎(秋田県)
大学生の頃、平泉の中尊寺と毛越寺に参詣したことがある。そのとき、平泉駅の跨線橋のホーム側の階段の木の手摺に戦時中の機銃掃射の跡があった。そういうことを記した小さなパネルが、手すりの裂け目の近くに貼ってあった。機銃掃射というのは爆撃機を護衛する戦闘機によるものだろう。平泉近くの空襲というと1945年7月14日あるいは8月9日の釜石か8月10日の花巻だ。その機銃掃射の日時もパネルに記されていたかもしれないのだが、そこまでは記憶していない。
『あるドライブ』も『夏の葬列』と同系列の物語に見えるが、戦争という史実を舞台にするのと、家庭という私的な世界を舞台にするのとでは、どうしても話の広がりが違ってしまう。そういう点で、読後の印象としては弱いものになってしまうのかもしれない。表題作『箱の中のあなた』は、それほど面白いとは思わなかった。