ゲームの哲学・第1章:ゲームとは何か?
第1部|牛と、六時間と、時々スキン
何がゲームなのだろうか?
同じ文章をキーボードで打つという行為でも、このnoteに書き込むこと自体はゲームではないが、Typing of the Deadならゲームになる。そして、もっと言えば、同じ文章をどれだけ早く打てるか隣の人と競争すれば、このnoteに書き込むことですらゲームになる。
ボタンを押すと反応があるのがゲームだろうか?だが、それだと、電卓もゲームになってしまう。ほとんどの人は電卓をゲームとは思ってはいない。
この、曖昧なゲームの定義を理解するためには、ゲームというものの要素を極限まで排除し、シンプルにする必要がある。肉を落とすことで骨が見えるように、ゲームにある様々な要素をそぎ落とした先に、ゲームの本質がある。それを理解すると、ゲームはなぜ面白いのか?ということをもっと深く理解できるようになる。
この章では、ゲームの本質を、ゲームスタディ学者が作ったシンプルなゲームを通じて掘り下げていきたい。
Ian Bogostという学者がいる。彼はゲームスタディでは知らない者はいない学者で、彼の作ったゲームの中にCow Clickerというソーシャルゲームがある。
今となっては一般化されている「ソーシャルゲーム」という単語も、彼がCow Clickerを作った2010年当時は憎悪の対象だった。Ian Bogostは自身のエッセイで、こう述べている。
"the massive success of Zynga’s FarmVille along with the company’s publicly malicious attitude--making this the year to hate social games."
「Zynga‘s FarmVilleの大きな成功と、その会社の悪意のあるビジネススタイルが、今年(2010年)を、ソーシャルゲーム憎悪の年にした」
※Zynga‘s Farmvilleは、Facebook上でプレイできる農業シミュレーションゲーム。ピーク時は8300万人ものプレイヤーがいたが、課金しなければ強力なアイテムを手に入れることのできないその「強欲な」料金体制と、同じことを繰り返す「浅い」ゲームプレイから、批評家やコアなゲームファンにからは評判が悪かった。
Ian Bogost自身もソーシャルゲーム自体に好意的な意見はもっていなかったが、ただ単にソーシャルゲームを憎み、理解しようとしない業界の風潮には疑問を持っていた。
"In the case of social games, I reasoned that enacting the principles of my concerns might help me clarify them and, furthermore, to question them. So I decided to make a game that would attempt to distill the social game genre down to its essence. Cow Clicker is the result."
「私の理論を実際に形にすることでソーシャルゲームへの理解と問題提起ができると思った。そうして、ソーシャルゲームのエッセンスを煮詰めてぎりぎりまで絞った結果がCow Clickerというゲームなんだ」
そうして作られたCow Clickerは、まさにソーシャルゲームを極限まで煮詰めて絞ったゲームであった(牛だけに)。
ゲームプレイは簡単。牛を一度クリックすることができ、クリックすると六時間もう一度クリックすることはできない。そして、クリックすると、「mooney」(moneyと牛の鳴き声のmooをかけた非常に面白いギャグ)というゲーム内通貨が手に入り、それを集めれば違う色の牛を手に入れることができる。六時間待てない人は、実際に課金してスキンを手に入れることもできる。
そしてなんとこのゲーム、それ以外何もやることがない。そう、六時間に一度牛をクリックして、Mooneyを手に入れ、それでスキンを買う以外のゲームプレイが一切ないのである。
こんな、まるで拷問のようなゲームを、驚くことに何百万人もの人がプレイすることになる。そう。牛を六時間に一度クリックするだけのゲームが、何百万人もに遊ばれたのだ(大事なことである)。
多くの人々がこのゲームプレイも何もない、牛クリックシミュレータをゲームとして受け入れ、ゲームプレイループを続けたのだ。そして、私はそこにソーシャルゲームだけでなく、ゲームの定義そのもののエッセンスがあると思っている。
第2部|入力、出力、そして報酬
私は、ゲームの最も根源的な定義は入力(INPUT)に対する出力(OUTPUT)が報酬(REWARD)であるか否かにあると思っている。
キノコを取った時に鳴る音、煌びやかな「Congratulations!」の文字、上がり続けるスコア。もしくは、きれいな絵、素晴らしい音楽、ランキング。ゲームは、プレーヤーの入力に対して、様々なものを「出力」し、「報酬」を与える。
スコアやクリア画面といったものは分かりやすい成功報酬だ。数字が上がったり、クリアできた!という事実を分かりやすく表現することでプレーヤーに達成感を与える。
昔のゲームでは、ゲームが終わるとその成否にかかわらず「GAME OVER」と表示するゲームが結構ある。クリアしたにもかかわらず最後に表示されるのは、ほとんどのゲームでは途中で失敗した時のみ表示される「GAME OVER」なのだ。これが嫌いな人は私の友人だけでも結構いる。そこにはクリアに対する「報酬」の大事さがうかがえる。たかがエンディングの文字でも、ゲームをプレイしてクリアするという入力に対する立派な出力であり、それが「報酬になる」ということはゲーマーにとって大事なのである。
だが、クリア画面やスコアのみが「入力」に対する「報酬」ではない。実はボタンを押したときに鳴るジャンプ音や、方向キーを押すことでキャラクターが動くことそのものも「出力」である。そして、ありとあらゆる「出力」は「報酬」になりうる。
チャプター1で述べた電卓の例を使おう。普通の人は電卓をいじること自体には何の感慨も覚えない。しかし、4歳くらいの子供になればボタンを押す、という「入力」から得られる「ボタンを押す感触」や、「画面の数字が増える」という「出力」から快感を得ることができる。その、快感が「報酬」となるなら、電卓いじりですら「遊び」になるのだ(箸が転げてもおかしい年ごろ、という諺は、ありとあらゆる「出力」を「報酬」にできる状態を表していて、そんな子供にとってはなんでも楽しい「遊び≒ゲーム」になる)。
クリアできなくても、対戦で勝てなくても、プレイしているだけでゲームを楽しむ人々というのはこの「報酬」の基準が違っていて、たとえば「かっこいいエフェクトが出る」だとか、「気持ちの良い音が鳴る」ということをエンジョイしているのだ。
(ここで、『じゃあ入力に報酬がある仕事はゲームなの?』という疑問が浮かんだ方は鋭い。入力と報酬だけではゲームを定義することはできない。それに加えて、「遊び」とは何かを定義する必要が出てくる。
「遊び」を定義することはゲームスタディの課題の一つで、実ははっきりとした結論は出ていない。が、私は「自主的に行われ、継続はプレーヤーに委ねられていて、ある一定の同意されたルールに基づいた、主観的な報酬が伴う非生産的行為」という定義が最も納得がいく結論だと思っている。もし、この定義に当てはまらない「遊び」、もしくはこの定義に当てはめられる「遊びでない行為」があると思った方は、ぜひ、コメントしていただきたい)
「出力」が「報酬」になるか否か、というのはその出力に主観的に価値があるかにかかっている。例えば、ドラクエのレベルアップ。レベルアップがもたらす報酬(敵が倒せる、ストーリーが進められる、数字が増える・・・)に価値を感じていなければ、レベルアップという「出力」は「報酬」にならない。レベルアップでもあまりステータスが上がらなかったり、既にゲームをクリアしていたりすると、レベルアップ音に感じる快感は減っていく。
Cow Clickerは、ソーシャルゲームがこの出力の価値をプレーヤーの主観ではなく、ゲーム側で設定することに対する危うさに問題提起をした作品だ。
Cow Clickerの主な報酬は、「牛のスキン(違う見た目)」である。ただ単に牛を着せ替えするだけのゲームであれば、箸にも棒にもかからないゲームであっただろう。
だが、そこにMooneyという架空の貨幣と、それがたくさん必要なスキンがある、という事実が、人工的に牛のスキンの「価値」を上げていく。それは、そのモノの質ではなく、手に入りづらさで値段が上がっていく現代の市場原理に似ている。2020年初頭の伝染病の影響で、急激に値段の上がったマスクがいい例だ。手に入れるのが難しいスキンほど、プレーヤーが感じる価値は上がっていく。本当はたった20円で作れるマスクが手に入りづらいがために500円で売られていたように、フォトショで色を塗り替えただけの牛が、100,000 Mooneyが必要だというだけで価値のあるものに思えてしまう。
本来プレーヤーが主観で感じ取るべきである、ゲームから得られる報酬の「価値」。だが、ソーシャルゲームは恣意的にその価値を操作することで、本来価値がないはずのゲームプレイに強制的に報酬を発生させ、その価値を延々と釣り上げていくことでプレーヤーを中毒にする。
”Rather, I found myself troubled by the way in which these games were games, the manner by which they seemed to magnify the dangerous aspects of games, making those aspects the only ones visible.“
「私はこのようなゲーム(ソーシャルゲーム)が、『ゲーム』である、ということに危機感を覚える。ゲームの危険性だけが強調され、可視化されたような錯覚を覚えるのだ」
Ian Bogostは、この信じられないほどシンプルでつまらない入力、出力の繰り返しに、ゲーム内で形作られた架空の価値によって中毒性を持たせるソーシャルゲームの危険性を示したかったのだろうと私は思っている。
Ian Bogostはゲームが発表されてから一年が経ったことを機に、牛がCow ClickerからいなくなるCowpocalypse(牛(cow)とアポカリプス(apocalypse)を混ぜたとても面白い造語)というイベントを行い、Cow Clickerの画面から牛を消すことで事実上Cow Clickerを終わらせた。多くの人は、牛がいなくなって「ゲームがつまらなくなった」といったが、それに対してIan Bogostは「元々つまらなかったよ」とぶしつけに返した。しかし、中には牛がいなくなって何もなくなったところをクリックし続ける猛者もいた。
第3部|で、結局ゲームって何なの?
Ian BogostがCow Clickerで伝えたかったのはソーシャルゲームの危険性だが、私はそれと同時に、ゲームは「入力」と「出力≒報酬」が至極シンプルでも成立し遊ばれる、ということを示していると思っている。ゲームは、この「入力」に対する「出力≒報酬」というループが有れば成立し、遊ばれる。たとえ牛をクリックするだけのクソゲーでも、ちゃんと出力があり、それが報酬になるのならゲームなのだ。「入力」と「出力≒報酬」の方程式は、ゲームの原子であり、我々が遊んでいるのはその原子がくっつき合って生まれた分子の集合体なのである。
次回は、この入力と出力の視点でもって、実際に「面白い」とされているゲームを分解し分析していきたい。
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