『他者といる技法』-一緒にいたいから一緒にいる関係へ-/書評未満4
私とあなたがいる。この時、私はあなたといるために、どんな技法を使っているだろうか。作者は、他者といるときに僕らが自然と使っている行動を他者といる技法と名付け、どのような装置であるかを検討する。
多くの場合、私とあなたが一緒にいるとき、私はあなたを理解しようと努める。言葉、リズム、服装、身振り、昔交わした会話の内容。すべてを使って、あなたを理解しようとする。でも、私はあなたに向き合っていただろうか。
他者を他者のまま捉えることはとても難しい。そこで、他者を理解するために類型に当てはめて理解をしようとする。男、女、大学生、社会人、恋人、幼馴染、フランス人、日本人、、、何かに当てはめてから理解をしているとき、僕らはあなたという他者ではない何かを理解していたことに気づかされる。異性愛者であると思っていた幼馴染が、同性愛者であることを打ち明けたとき、私の前に慣れ親しんだ幼馴染が不気味な他者として立ち現れる。私は幼馴染のことを何も知らなかったのだと悔やんでしまう。
類型は私とあなたの関係性を物語っている。私とあなたが作り上げてきた関係があなたという虚像を作り上げてしまう。本当に私とあなたの関係が構築した虚像であるなら、まだ望ましい。しかし、私とあなたの関係は、実は関係性が先行している場合が多い。家族、恋人、友人。関係性が私とあなたの関係を縛ってしまう。
他者といる技法は、他者を理解することだけの技法に過ぎないのだろうか。他者を理解しようと努めて、それでもできないとき、理解できていない自分を責めてしまう。どうして理解できていないのだろうか。あなたに向き合えていないのだろうか。
ここで、一つ問う。では、なぜ私はあなたを理解したいのだろうか?私はあなたと一緒にいるために、理解しようとしているのだと答えるだろう。もう一つ、問いたい。私があなたと一緒にいるために、理解は必要なのだろうか?問いの本質は、理解しなければ私はあなたと一緒にいられないのだろうか?ということだろう。理解さえしていれば、私はあなたと一緒にいてもよいという免罪符が与えられる。どうやら、あなたを理解する目的はあなたと一緒に居るためのようだ。そんな免罪符なんかいらない。
この文章で、僕は理解しなくても他者と一緒に居てもよいと主張する。理解ができていないことは、決して理解を諦めたことではない。理解を超えた他者に遭遇したとき、理解を諦め、自分の周囲の人を大切にしようと人々は言う。一見、優しい行動に見えるが、この行動は理解を超えた他者への強烈な拒絶を意味している。僕らは、もう一度、理解しなくても一緒に居られるということを証明しなければならない。そのために、必死に他者を他者のまま理解することを行う。それが、せめてもの抵抗なのだから。
関係性に回収されない関係はとても脆い。会いたいがなくなってしまったら、会うことができなくなってしまう。でも、それでもいいのではないか。私は私として理解されることを望む。そして、他者を他者として理解したいと願う。もしかしたら、今日で私とあなたの関係は終わってしまうかもしれない。それでもいい。そして、私はあなたを理解できなくてもいい。その分、私は他者へと開くことにしよう。理解しよう、理解しようとした先に、それでもわからないねと笑いあうために、とにかく他者へと自分を開くことにしよう。私とあなたは理解しあえなくても、一緒に居られるはずだから。
家族だから、恋人だから、親友だから、友人だから、こういう理由で会うと語ったとき、すでにその人と会う理由を失っている。僕らは関係性を維持するために会うわけではない。あなたに会いたいから会いたいのだ。関係性が先行しない関係へと移行できるのかが問われている。一緒にいたいから一緒にいる関係へ。そのために、もう一度あなたに会いたいと伝え、会いに行こう。