まずはここから始めよう 第951話・9.2
「あれ萌ちゃん何しているの?」蒲生久美子は同性パートナーの伊豆萌が、真剣な表情でテーブルの上で椅子に座って何かしているのを見つけた。
だが萌は、久美子の声に気づいていないのか反応がない。
「ねえ、萌ちゃん!」久美子はさらに近づいて声をかけるがやはり無反応。
「ちょっと萌ちゃん!」久美子はついに萌の肩をたたく、ようやく萌は気づいたようだ。「あ、あ、久美子さん」
我に返った萌は、突然久美子が目の前にいたことに驚いている。
「どうしたの萌ちゃん、そんな難しい顔をして」久美子は萌にさらに近づくと、萌の右手を両手で握るそのまま耳元で、「萌ちゃんの表情が硬いのが気になるわ。ねえ、どうしたの」と、小さくささやいた。
萌は久美子にささやかれて、心地よくなったのか目がうっとりとして、「あ、く、久美子さん」思わず体を久美子に預ける。そのまま甘えるような表情で久美子を見つめた。「あ、あのう、わ、私」「萌ちゃんどうしたの?」
「私、絵を描きたいの」「え?」久美子は萌から意外なことを言い出したので思わず目を見開く。
萌はいったん久美子から離れると座り直し、「私、絵を描く趣味を持ちたくなったの」「萌ちゃん、急に絵を描きたくなったの?」萌は大きくうなづくと「外はまだ暑いから、おうち時間を楽しく過ごせないかなって」萌の表情は真剣そのもの。
「だって弟は、音楽やって結構頑張っているし、そういえば私にはそんな一生ものになりそうな趣味とかライフワークが無いなって」
それを聞いた久美子は口元が緩む。なんとなくではあるが、久美子が絵を描きたいと言い出した理由がわかった。
「萌ちゃん、この前の美術館鑑賞の影響を受けたのね」
「え?」今度は萌が驚く。萌は特に意識していなかったが、久美子に言われるように先週一緒に見に行った美術館での絵画鑑賞が終わってから、無性に絵を描きたくなったことは間違いない。
「久美子さん、た、確かにそれは......」それは図星だったようだ。萌はうつむき顔を赤らめる。
「あ、萌ちゃん、そんな。私は別に否定してないからね」
慌ててなだめる久美子は萌の背中を何度もやさしくなでる。「あ、久美子さん、あ、まだお昼」萌は久美子に撫でられて少し気持ちよくなってきたが、ここは理性を戻した。
「もう、萌ちゃん。わかっているわ。だからそんなに暗い顔しないで」「はい、で、でも」まだ萌は表情が暗い。
「だからどうしたの?絵を描くのを私反対しないわ」
「そのお、いざ書こうと思って、紙ととりあえず鉛筆を用意したんだけど......」萌はそこから口をつぐむ。
久美子は今度は萌が何に悩んでいるのかわからない。先週見た絵画は心象画のようなもの。あれをいきなり描こうとしているのだろうか?だとすればどう考えても無理だ。
「まさか、萌ちゃんあんな絵は無理よ」「え?」
「美術館の絵は凄いから美術館で公開されているの、それはプロ中のプロの作品よ。趣味でやっているような人の絵は、まずあんな所には出ないわ。ましてやこれから絵を」久美子は勢いよくしゃべるが、ここで口をつぐむ。
慌てて萌の表情を見た。萌はこれで落ち込んではいないようで少し安心する。
「いや、あのお......」萌は、慌てて何か言おうとしていた。
「何、萌ちゃん?」「そのお、もちろんそんな美術館の絵なんて目指していない。そんなの久美子さんに言われなくても......」
「そ、そうよね」
「私、そのそれ以前の、まず、絵ってどうやって描くのかがわからないの」そういうと萌はテーブルの上に置いてある紙の方に視線を送る。萌の視線の先には白い一枚の紙と、しっかりと鉛筆削りでとがらせたHBの黒鉛筆が置いてあるだけだった。
「え?あ、ああああ」久美子はようやく萌の悩みを理解する。「そうよね。私も絵心ないしね。そしたら絵画の先生探す?」
だが萌は慌てて首を横に振り、「そんな、先生なんて。私は自分で好きなように描きたいし。ただ描きたいけど、どこから始めたら、はあぁ」と、ため息ひとつ。
この状態でしばらくの沈黙が流れる。
2,3分くらいその状況が続いただろうか、突然久美子が何かをひらめく。「そうだ、萌ちゃん、塗り絵から始めたら」「え?塗り絵ですか」萌は驚きつつ久美子の方に視線を戻す。
「そう、塗り絵ならまずその下書きというのかな。輪郭だけ描いているの。それを自由に絵を塗ってみるのよ。それがいいわ。まず色彩をいろいろやって好きな色を見つけるのがいいかな。それから自分で輪郭を描き始めたらどう?」
久美子のこの提案は、萌の心に響いた。ようやく白い歯を見せ笑顔になる。「久美子さん!ありがとう。さすが久美子さん。それがいいわ。塗り絵ね。そう、まずそこからよ」
急に元気になった萌は、さっそくネットで塗り絵を探す。「塗り絵って色々あるわ。どれにするか迷うわ」
「でも、最初は簡単なのからはじめて、少しずつ難しいのにしたら」笑顔が戻った萌に久美子も嬉しくなり思わず口元が緩む。
「じゃあこれにするかな」萌はひとつの塗り絵を見つけると、さっそくダウンロード。部屋に置いてあるプリンターから塗り絵の輪郭をプリントアウトした。
「よかった、じゃあ萌ちゃん頑張って。出来たら見せてね」そう言って久美子は、萌の邪魔をしないように離れようとする。ところが萌が、「く、久美子さん!」と呼び止める。
「どうしたの萌ちゃん」「あの、私、鉛筆黒しかもってない。私色鉛筆もクレヨンも持ってないの。あの、久美子さんそういうの持ってません?」
と、戸惑っている萌。久美子は頭の中で「え?」とつぶやきながら固まる。次に萌にかける良さそうな言葉が思いつかなくなった。
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