
豚のマーチ
ここはとあるとんかつ店。スーツ姿のサラリーマンがランチの席で同僚に愚痴をこぼす。「いやー困ったもんだよ。取引先の新しい担当者」
「どんな人。でも中山が担当している所って最重要の大口だよな」「山川、そうなんだ。相手は上場企業だから、今回想定外の担当になっちゃってさ」
ちょうどランチのとんかつ定食がふたつテーブルの前に運ばれてきた。この店のランチの日替わり定食、メインのとんかつとご飯、それから小鉢と漬物がついている。ありきたりのものといえばそれまでだが、今の中山にとってはいつも以上にとんかつへの愛情を注いでいた。
とんかつを口に運ぶ。やや厚めで肉と分離しかけている皮はまだ熱い。しかし唇の一部がやけどで皮がめくれることを覚悟のうえで、歯を使って噛み締めていく。そこからにじみ出る高温の肉汁が湧き出る。口の中の高温を少しでも冷やそうと口を半開きにして空気を2回ほど入れる。
そして再度歯で噛み締めた。皮と中の豚肉とのちょうど良いバランスの取れた味わい。熱さを耐えればやがて湧き出る豚本来の旨味。中山は思わず目をつぶって、砕けた豚肉を喉の奥に突っ込む。こうしてその味をしっかりと堪能した。
「やっぱり旨い。こんなとんかつが味わえないなんてとか思うわ」
「おいおい、ずいぶん大げさだなあ。何、今回の担当者、とんかつに関係あるのか」山川が口を緩めて探りを入れる。中山はあっさりなんどもうなづくと「そう、豚肉がダメなんだ。何しろ相手はムスリム」
「ムスリム! 外国人か」「ああ、新しい担当者はクアラルンプール出身のマレーシア人。モハメドさんだ」
「あちゃぁ。それは同情するわ」
「だろう。このとんかつをはじめ豚肉がダメだし。酒も飲まない。今まではとりあえず接待でそれなりの店に連れて行って、酒のひとつも飲めばだけど。それが通じない相手なんだ」中山はそういうと頭に右手置いてため息をつく。
「そうか、中山の実家が養豚場だったよな」「ああ、豚肉の良さを知っているし、自家製ソーセージも作っているから本当にファンも多いんだ。だけどあいつら『穢らわしい』のひとことだろ」
しばらくの沈黙が続く。というよりふたりが単純にとんかつ定食を食べているだけに過ぎないが。
先に完食し、お茶で口の中の汚れを洗浄し、口を開いたのは山川。「うーん。だけど中山よ。宗教上の問題云々を考えていたら、これからのビジネスマンとしてダメだろう」
山川の意見は正論だ。それは理解できる。だが現実問題として接待と言えば、飲める店で相手と酔いながら親しくなろうというもの。そんな従来のやり方が通用しない。そのことで中山はどうすればよいか戸惑うばかり。
「よし、俺が一肌脱いでやろう」「え。山川どうするんだ?」
「うん、今度3月最初の日曜日にモハメドさんのファミリーを招待するんだ」「え、招待ってどこに」「それは任せてくれ。とりあえず中山もファミリーで参加する。いいな」
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こうして迎えた3月最初の日曜日。中山は妻と小学生の長男。それから幼稚園児の長女の4人で、山川が指定した場所に向かう。
「おう、中山待ってたぞ」「グランピングか。バーベキューとか良いな」「あ、主人のためにありがとうございます」すかさず頭を下げるショートカット姿で青いジーンズを履いている中山の妻。
「お気になさいますな。間もなく来ますね。ムハンマドさんたち」
「それから、俺の家族だ」「山川です」と山川の後ろから恐る恐る現れたのは、色白であまり目立たない彼女。白いロングスカートを履いた女性である。ちなみにふたりに子供はいない。中山の子どもたちは見慣れぬ場所のためか既に歓声をあげてはしゃいでいた。
山川がそういって5分後、グランピング場にモハメドの家族が笑顔で現れる。モハメドに連れられた妻は、ムスリム特有の被り物「ヒジャブ」をしていた。そして小学生低学年の娘とさらに年下の息子の4人家族だ。
「ご招待いただきありがとうございます」律儀に流ちょうな日本語で挨拶をするモハメド。「いえいえ、せっかくのご縁ですからお近づきのしるしに」と頭を下げる中山とその妻。そんな接待モードは5分で終了した。あとは3つのファミリーがこの日のために借りたグランピングの施設で、バーベキューの火おこしから始める。
「モハメドさんのために、羊肉用意しました」と元気よく答える山川。
「お、それはいいですね!」モハメドは笑顔で応じる。こうしてバーベキューは、3家族で楽しく過ごせた。
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ところが、焼き始めて30分ほど。途中から焼き始めたある肉に対してモハメドがクレームに近い言葉を発した。「ちょっと待て。それはまさかのポークか」
モハメドの指摘は鋭い。実はモハメドに食べさせなければ大丈夫と思っていた中山が、実家の養豚場が作ったオリジナルの自家製ソーセージを持ち込んで焼いてしまったのだ。
一瞬場が凍り付いた。それを見かねて発言したのは山川。
「モハメドさん。これがポークかどうかですが、それはあなた方にとって不浄なものかもしれません。しかし国によって食文化も違います。例えば僕はクアラルンプールに行ったことあるんですが、あそこにカエルの肉の店ありますね。
日本ではカエル出す店は0じゃないがほとんどありません。蛙を食べる人なんて基本的にごく少数です。僕が言いたいのはその国の文化に従ってほしい。許される範囲と思ったのでです!」
必死に状況を打開しようと熱く語る山川はやや暴論に近い。しかしムハンマドの不愛想な表情は変わらなかった。
「申し訳ございません。実家のものを勝手に持ち込んでしまいました」とここで中山は最敬礼に近い姿勢で謝罪した。この行為に対してようやくモハメドは理解を示す。
「なるほど。たしかに、私の祖国マレーシアでは、そんな肉は華僑たちしか食べません。だからはっきり言って理解できません。こんなものは、アラーが『不浄』だといっています。
でもここは日本。日本人はこの肉を食べること、来る前から学びました。だから今日はそこにあるのはいいでしょう。私たちはその肉に絶対手を出しません。ご自由にどうぞ。私たちは今日、用意してくれた羊肉をありがたく頂きます」
それを聞いて中山は「あ、ありがとうございます。私はポークを育てている家で育ちました。自分たちが食べるためとはいえ、このようなものを出してしまい大変申し訳ございません。でもビジネスやお互いの交流は別だと思いました。これからもどうぞよろしくお願いします」と言って頭を下げる。
それを見て、モハメドをはじめ横にいたモハメドの妻や山川も思わず声を出して笑う。「まあ、まあそんな方ぐるしいこと止めましょう。今日は休日だから」となだめながら笑顔が広がっていく。
ところがそんな大人たちをよそに、早くも中山の子どもたちとモハメドの子どもたちは仲良くなっていた。お互い楽しく文化の違いを話しながら「マーチをやろう」と日本とマレーシアで定番の行進曲を交互に口ずさみながら、楽しくやり合っていた。
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「ふぅ、ちょうど1年前か。最初の緊急事態とかそういうのが出る少し前、本当にぎりぎりだったなあ。1か月遅れてたら多分できないことだ。果たしてどうなっていたのやら。いやぁ、山川に相談してよかった。あのときのモハメドさん、嬉しそうだったなあ。今じゃテレワーク。オンラインでしか彼とは会っていないが、あの時の成功が今のわが社を支えているに違いない」
中山は1年前のこの日。ホーム接待パーティを思い出した。2020年3月1日日曜日の思い出に浸りながら、中2階を作るために自室に設置した天井を低くしたMY書斎でのひととき。
「でもよ。3月1日って豚肉の日。山川よくこんな日にやったもんだ。それにマーチの日であの子供たちのマーチか」と、熟成酒をゆったりと口に含んで味をかみしめながら過去を楽しむ中山だった。
「画像で創作(2月分)」に、kuutamo(月町さおり)さんが参加してくださいました
夕方から始まった自転車デート。海岸で自転車を止めて歩くふたりに映し出された、オレンジあるいは茜色の空間とにかく綺麗です。 美しい夕日の前にその日はまだ終わってなかった。そしてときどき綺麗で美しいものは夕日だけだろうか?読みながら夕日を背景にした情景と仲の良いふたりのうらやましくなるような関係が心地よいです。ぜひご覧ください。
「画像で創作(2月分)」に、とらみな(寅三奈)さんが参加してくださいました
月末の締め切りということもあって今日は2本目。三本の短歌ということですが、勝手ながら一連性があるような気がしました。カーテンがなくても窓からこういう夕日が見えるという幸せ。それを映し出す湖の独特のきらめく色合いは飽きることがない。そして耳から入る鐘の音も心地よさそうな情景が浮かびました。ぜひご覧ください。
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シリーズ 日々掌編短編小説 405/1000
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