移住先は未来の死後の世界 第973話・9.24
「みずがめ座か、現実世界でも見えているだろうなあ」ひとりの男が、そういって夜空を見た。だが彼がいるのは現実世界ではなく精神世界。死後の世界といった方が正しいのかもしれない。
遥か昔、西暦21世紀ごろに初めててメタバースと呼ばれる仮想空間が誕生する。メタバース界は年々進化を続けていたが、約100年ほど前についに画期的なことが行われた。
それは死の直前にいる人の意識そのものをメタバース界に移植・移住させることに成功したのだ。
それまでのメタバース界ははあくまでリアルな世界で生きている人を通じて、メタバース界で生きるアバターのような存在の世界であった。だが、ついに肉体の死を迎え、霊となった人が仮想空間に入り込み、そこで肉体を持って生きていた時代と同じようなことができるようになる。だから現実世界から見るとメタバース界は死後の世界といっても過言ではない。
やがて、肉体の死を迎え霊となった人が次々とメタバースに移住するようになると、リアルな世界つまり生きている人たちとの間で摩擦が起こった。
具体的に言えばリアルな世界の人たちはメタバース界でトラブルがあったとしても肉体の世界に戻ることができる。だが肉体の死を迎えた精神上だけで存在している人たちは、すでに肉体が消滅しているから戻ることができない。
つまり肉体を持つ生きている人たちが、メタバース界で犯罪行為を犯しても肉体のリアルな世界で逃げられるのだ。
メタバース界のなかで肉体の死を迎えた人たちは、この状況を打開するために、まだ肉体を持っている人たちを排除し始める。特にこの移植・移住が始まった当初は選ばれた学者や政治家、やがて金の力で移植が許された資産家ばかりだった。ここ数年はそうではない人も続々と肉体の死を迎えると死後の世界、メタバース界に来ているが、それでもまだまだ一般庶民には高根の花。
彼らはメタバース界で事実上の永遠の命を得たわけだが、それ以上に頭が良い。それはそうだ、80歳や90歳で亡くなるはずの人が、その意識を温存したまま数十年も生きているのだ。結果的に頭の回転の速さ、情報量の多さでは、圧倒的に肉体を持つリアルな世界で生きている人を凌駕する。
こうして最初にメタバース界に来た優秀な人たちは、本当の意味での死後の世界を独自に構築した。やがて肉体を持っている人たちはその領域に入れなくなる。一応両者がコミュニケーションをとることができる場所は少しだけ残された。とはいえ肉体の死を迎えた人のみが入れる隠れた世界は、生きている人にはわからない完全に闇と化した。
「まだ生前の世界を気にしているの?」男に話しかけてきた人は、メタバースの世界に来て10年になる女性。彼女は10年前に95歳で亡くなったが、メタバースの世界に来ると、20歳くらいの姿になる。
「ああ、まだここにきて1週間だよ。俺は色々運が良かったからなあ」男は一週間前に肉体の死を迎えたときは90歳だった。だが半年前にはメタバース界に行くとは夢にも思っていない。一般庶民として人生を終えようとしていた。
転機が訪れたのは、一枚の宝くじ。まさかの一等が当たったので、こうして死後メタバース界に行けるだけのお金が手に入った。
「まだ精神世界で生きていける」男はそう言って喜んだ。こうしてメタバースに入るための手続きを終え、肉体の死を迎える準備が整った。
だがまだ予断は許されなかったのだ。実はここでも一歩間違えると無駄になることがあった。その中のひとつは突然の事故死や殺人など。
意識が残っていればかろうじて転送できるが、即死の場合、もはや手が出せない。
それで何人かの資産家や政治家があえなくメタバース界に入れずに命を落とし、本当の意味での死後の世界に行ってしまうことになる。
もちろんこの時代でも本当の意味での死後の世界に行った人たちとは、一切のコンタクトは取れない......。
男は死の直前まで事故に遭わないように慎重に生きた。そうなると毎日が薄氷を踏む思いとなって息苦しい。むしろ何も考えずに死を待っていた方が楽だったのかもしれなかった。だけど何事もなく、病室でいよいよ死ぬとき、つまり心臓が止まる直前に、無事に肉体からメタバース界に意識が転送され、無事に移住を果たす。
「ここにきて一週間だけど、天国とはこういう世界のことをいうんだろうなあ。その気になれば現実世界の人たちとコミュニケーションが取れるエリアに戻れる。まあ生涯独身だったおいらには、あってくれる人などいないけど」
男のつぶやきに女は笑みを浮かべる。
「さて、どうかしらね。精神世界で生きたとして、永遠の命を得たとして、それが本当に幸せかどうか?そうね。まだあなたにはわからないけど、10年もこの世界で生きていると、この選択肢が本当に正しかったかどうかたまにわからなくなることがあるの。大多数の人がそのことで悩んでいるみたい」
女はそう言って男の横に座る。と言っても仮想空間だから物理的に座っているわけでもない。
「じゃあ、君は肉体を持っている現実社会の人たちのコミュニケーションはもう取っていないのか?」
「必要ないわ。もうあの世界は私のとっては過去のもの。前世のようなものかな。そうね。私が来たときは、ぎりぎりリアルな人たちと混在していたこの世界も、上層部の人達が切り離してくれたことで、ようやく静かになった気がするの」女は視線を遠くに向けて語り続ける。
「ここにきている一部の人はそうじゃなくて、本気で肉体の世界の人達に敵意を持って、完全独立を考えているようだけど、私はそういうことについてはもうどうでもいいわ」そのあと女は声に出して笑った。
「そうか、僕もいずれ君のようにどうでもよくなるのかな」「うん、たぶんなれると思うわ」女は一言つぶやくと空を見あげる。
「それにしても星はいつみてもきれいね。でもあの先にはもっと素敵な海があるわ。ねえ今から水中探索しません。仮想空間だから溺れることもないし」
女に誘われた男は、「ああ、行こう!」そう言って口元を緩ませると立ち上がる。こうして精神世界で生きているふたりは、あくまで仮想上に存在する海に向かうのだった。
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