法螺吹き雜記 敎育編 貳

敎育現場に導入された市場原理主義

現在の學校教育は多額の敎育費を注ぎ込み成功すれば「有名大」「高給」「レベルの高い配偶者」「高層マンチョン」「豪邸」「高級な服」「車」「地位」「名誉」など、「高價」なものと交換してくれると子供に期待してゼロサムゲームへ子供を参加させる。殆どの親は子供が學ぶ動機付けを理解できていず、取り敢えず經濟合理的動機付けから切り出してみる。消費者は親であり社會的地位、名誉を子供(貨幣、子供が一生懸命勉強してくれるほど價値が高くなる)と交換して、周囲に自慢し自己満足する結果に終わる。


すべて敎育機關に丸投げして商品が正当に取引されることだけが關心事であろう。また、子供達も「消費主體」と成り得、試驗の點數や單位取得にせよ、最低限の努力で最低限必要なポイントを稼ぎさえすればよいのだから、最低限の労力を費やして手に入れる「賢い消費者」となる。周りの「敵」の戦意を消失させ、集團全體の能力を下げれば「敵」を減らすことができ、安價で樂に「商品」を勝ち取れる消費主體、周りの人間の生命力を減殺させる人間へとつくられていく。偏差値は周りの人間の能力を高めるか低下させるかでいくらでも變動でき、僅かな努力で有名大に受かることもある。


自己利益の飽くなき追求は人間性を陳腐化し、人間とは何かを考える時間、「生きる」とは何かを考える時間、總じてどれだけ「稼ぐ」かを他者との競争で如何に勝ち残り敗けないように努力する時間に吸収されて、弱肉強食世界の自然界の一部分だけがこの世界の決まり事であるという「思いなし」から疑問を持つことさえできなくなってしまっている。


間違うと怒られるかもしれないから、間違わないように合っているか否かを逐一敎師に確認しながら話を進めて行く遣り方、授業で敎えていないことを遣るとひどく怒るのは、この場合、課題を出した敎師が「消費主體」となり、子供(生産者)にクレームを言える構圖となる。生徒(生産者)が敎師(消費者)に完璧な物を提供することになるため、生徒(消費者)が敎師(消費者)の顔色を窺いながら注文通りの内容を確認するのは当たり前で、不満があると敎師(消費者)がクレームを言うのが当然となっている。「仕事ができない」とは注文通りに仕事をこなしてくれないことに繋がって来る。なるべく失敗しないように、間違わないようにしなければ怒られる病的な空氣感は、構成員全體の生命力を減殺。「敎師」に對して嫌われないように無理して應えていると心身ともに減衰する。答えの有無がわかっている出題された問題についてはニーズとなり、生徒はこれに應える役目を果たさなくて減點されることを知っている。

經濟合理主義社會ではお客樣の要望に應えるのが大原則。


常に人と較べられやる氣を殺がれ成績が落ちていく負のスパイラルに陥る。進學先や就職先や集團社會で品質が問われているんだから比較されることが「当たり前」となっている。テストの點數で定められた似非學力、その自分の今の頭の程度を數値化され評價され、いつも似たような「點數」が聯続すると「自分はこの程度の人間なんだ」と潜在的に刷り込まれる。それ以上の成長は諦めることに繋がることもある。通っている學校、進學できる學校、職場などが現実實的に裏付けている。


市場原理社會では何もかも數値化され自己の價値をも決定され、その枠組みから脱することは困難である。數値化は一目でわかる「わかりやすい」表現であるより、數量的評價は盛んにおこなわれ基準は零點から始まり加點されていくか、百點満點から始まり減點されていくかする。こうした自己價値の數量的決定、數量的な社會的位置付けが個人を絶對化する。自己價値、自己價値と聯呼しているが、自己價値なんてものは存在しない。腦が勝手に定義したものに過ぎず、本來自分(自然)に値段を付けることなど誰にも出来ないのだ。

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