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コロナがあってほんま良かった、と言われて。
2024年3月20日 卒業式でした
思い起こせば、2020年3月初めより学校閉鎖となり、マスクはどこにも売っておらず、大阪イチの繁華街なんばには誰も歩いていなかった。
不要不急の外出は避けましょう
ソーシャルディスタンスを保ちましょう
そうテレビやニュースで大きく伝播された。当のテレビ局の関係者や出演者も感染したり、連続ドラマが放送できなくなったり、異常なコロナ2年間の序章だった。
その前年11月末に、娘は父国7年間の単独留学を終えハイスクールを卒業し、日本へ帰国していた。
当時、日本の大学を受験するには11月末は遅すぎた。オンライン受験(日本の大学と現地を遠隔でつないでの受験)を導入している大学は数校しか無かった。
日本と授業カリキュラムが異なるため、一般入試は娘にとって不利、語学専門にしぼり、専門学校と語学大学を受験したのだった。
大学の入学式は中止でした
初登校は教本を受け取るだけで、教室も図書館もサークル活動も知らず、大学一年生がスタートした。
しばらく自粛期間のあと、オンライン授業は始まったが、同級生とはパソコン画面上で聞こえる声だけ、触れ合うことなく体温を感じない、アオハルだった。
一方、マレーシアは2020年3月25日からロックダウンとなった。女子寮で娘とルームシェアしていた友人はタイ出身と中国出身。卒業後も娘はSNSで連絡を取り合っており、アジア各国のコロナ禍対応状況の違いを感じていた。一年下の後輩は、授業もない上に、移動制限により母国へも帰れず校内に残留し、ただただ辛抱強く孤独な寮生活だったようだ。親も身近におらず感染の不安が募るばかりか、心細かっただろうに…。
成人式も無くなりました
レンタル振袖と髪結をして写真だけは撮った。翌年行われた『大阪市限定USJ成人式』には選にもれた。
そうして、感染状況が徐々におさまり、大学ではオンライン授業から対面式授業← 通常の授業をこんなふうに呼ぶなんて) が始まった。自宅から大学まで往復3時間強。1日24時間中8時間睡眠と計算すると、毎日1/5 を通学に費やす日々、最終限まで授業を受けると帰宅は21時半。バイトもできず友人とつるんで遊ぶ時間もなかった。
2022年下宿生活へ。料理もできない娘なのにひとり暮らし大丈夫? とウチは心配したが、なんとかなった様だ。大学附近でバイトも見つかり、級友とショッピングを楽しんだり、飲み会に誘われたりの大学生活が、ついに、やってきた。留学は叶わなかったが。
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そんな2023年秋 冒頭の、
コロナがあってホンマ良かった
だって、自分の時間ができたから。
あの期間がなかったら、自分の道を考えることでけへんかった。じっくり自分と向き合う時間をもてて、勉強も自分のペースでできて受験に集中できた…とても貴重な時間だった、自分にとって。
もちろん、亡くなった方たちや大変だった医療関係者たちには悪い面はあるけれど、コロナがあったから、オンライン化が進んだり、通勤時間を見直したり、家族一緒に過ごしたり、タッチパネル注文など、いろいろ世界中で進化したと思う。と彼はまっすぐな瞳で語った。
「コロナで大変でしたね」が常に合言葉になっていたウチらにとって、正反対の意見は新鮮だった。
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3年弱 通った大学の卒業式は、ときどきみぞれが降る寒い一日でした。
娘よ 民族衣装を身につけ
級友たちと笑いさざめく姿に
ウチも相方も誇らしい。
帰りの車窓から見上げると
小雨降ってるところと、くもりのところと、
晴れが差し込んでるところ
空がさまざまな表情を見せていた。
まるで、人生みたい。この4年間すごい経験をしただろうが嵐の日もいつか明ける。
激動のアオハルを駆け抜けたみんな、
卒業おめでとうございます。