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わたしの『有頂天家族』

はじめに

 舞台『有頂天家族』の京都公演初日に京都を訪れた日の夜、『有頂天家族』の世界へ入り込んだような体験をしました。これはその記録です。事実をありのままに書いたわけではないので、8~9割創作だと思って読んでください。


夜の翼にて

 舞台を見終わった夜、わたしは先斗町にいました。朱硝子に納涼船、千歳屋、仙酔楼と場所を変えつつお酒を楽しむ狸と天狗と人間を観て、わたしもあびるほどお酒を飲みたくなったのです。
 祇園四条界隈で夕ご飯をすませ、先斗町にある酒場夜の翼へ。
 階段を降りていくと、まるでわたしが来ることがわかっていたかのようにドアが開き、「お待ちしておりました」と女性店員さんが頭を下げます。
 「1名なんですけど空いてますか?」
 「お久しぶりです。空いてますよ、どうぞ」
 「ありがとうございます」
 調度店主の前のカウンター席に通されると、「ああ、どうも。お久しぶりです」と忙しいのに声をかけてくださいました。
 「今日は観光で?」
 「いえ、南座で『有頂天家族』の舞台があったので観に来ました。狸たちがとっても美味しそうにお酒を飲むんですよ。そんなのもう飲みたくなるじゃないですか」
 「そりゃあ、飲みたくなりますね」
 話に付き合いつつ店主は手品のような早業でお酒をつくり、さっと目の前に差し出してくれました。
 一口飲むと華やかな香りと甘味で心が満たされていくようです。
 黒髪の乙女は、太平洋の海水がラム酒であればよいのにと思うほどラム酒を好むそうですが、わたしは最近ウィスキーにはまり気味です。京都のオモチロイものを見て歩き回った夜はウィスキーのソーダ割をグビッとあおぐに限ります。
 「朱硝子にはまだいってらっしゃらない?」
 「この辺でご飯食べていたので、まずはこちらかなと思って」
 「そうでしたか」
 夜の翼は、『有頂天家族』に登場する酒場のモデルである朱硝子とは姉妹店らしいのです。京都へ来るとわたしは、どうしても朱硝子と夜の翼をはしごしてしまいます。そうして森見ワールドを味わう、なんと贅沢な夜なんだろう……!
 京都の短い夜を味わわなくては、満足して眠れぬ身体になってしまったようです。

 「いやーまいったよー」
 女性店員に案内されて一人の男性客が入店しました。
 「おや、いらっしゃい。先日は大丈夫でしたか?」
 店主に声をかけられた男性客は、わたしの隣にドカッと座ります。
 「いやいや、あのくらい。酔っちゃないよ、頭はしっかりしてたしね。ちょっと気分が悪かっただけで」
 「そうでしたか。その様子だと今日はもどこかで1杯やってきたようですね?」
 「そうそう、そのことなんだけどさ。さっきまで朱硝子にいたんだけど、すごい人でさ。洛中の狸が人間に化けて出てきたんじゃないかと思うくらい混んでたよぅ。早々に退散してきたってわけさ」
 親しげに店主と会話していた男性客は飲みたりなさそうな様子で、会話の途中で「いつものね」と一言はさみました。
 「しかも看板まで変わっててさ」
 男性客はスマホを店主に見せました。「君も見るかい?」と言いながらわたしにもスマホの画面を見せてくれました。
 確かにお店の出入り口はいつもと違う装いになっています。出入り口に続く階段の途中にいつもはない看板がかかげられているのです。わたしは驚きました。その看板には見覚えがあったのです。
 「これ、『有頂天家族』の朱硝子の看板では?」
 「え、朱硝子は朱硝子でしょう?有頂天もなにもないよ」
 「いえ、『有頂天家族』という小説に朱硝子という酒場が出てくるんです!もしや舞台の公開に合わせてお店の方が作られたのでしょうか!?」
 わたしは半ば興奮し、まくしたてるように男性客に詰め寄りました。男性客はタジタジです。
 「いや、うちにそんな策略家はいませんよ」冷静な店主の言葉に我に返ります。男性の前にサッとお酒を出しだすと、店主はわたしと男性客を見て続きを話します。
 「先日……ハロウィンの日に、弁天さんが差し入れてくださったのです」
 「え、弁天さん?」
 弁天さん、いったいどこからその看板を……。
 ふふふ、と冷たい笑みを浮かべる弁天を想像しながら心の中で呟きました。確かにあの人なら次元を超えてあちらの朱硝子から看板を拝借してきそうではあります。想像に難くない。
 いやしかし、そもそも弁天は『有頂天家族』の登場人物です。もちろん、実在しません。
 わたしは困惑していましたが、店主はこともなげに言いました。
 「弁天さん、よくご存じでしょう」

 「事情はよくわからないけどさ、朱硝子行ってみなよ。謎が解けるかもしれないよ」
 呆然とするわたしに男性客が声をかけてくれました。相変わらず店主は手品のような早業でお酒をつくっては、サッとお客の前に差し出していました。
 「もしかすると本当に弁天さんって人がいるのかもしれないし、洛中の狸に化かされているのかもしれない。僕も店主も狸で君を化かそうとしているのかもしれないよ」
 なるほど確かに。作中で矢三郎は弁天に、銀閣は竹林亭に化けていました。目の前の店主も男性客も、いつもと看板の違う朱硝子も狸かもしれません。
 「それなら、わたしも狸かもしれません」
 「君、相当酔ってるんじゃない?大丈夫?」
 「なんのこのくらい。酔ったうちには入りません」
 男性客は怪訝そうな表情をしましたが、「そのお客さんは大丈夫ですよ」と店主が保証してくれました。
 「君一人なら入れるかもしれないけど、念のため電話してから行った方がいいよ。蛙1匹入れるかもわからないくらい混んでたから」
 「ありがとうございます。もう1杯飲んだら行きます」
 俄然阿呆の血が騒いできました。グビッとハイボールを仰ぎ、「偽電気ブランを!」と勢いよく追加注文しました。
 「そんなに勢いよく飲まんでも、酒は逃げないよ」男性客は豪快に笑っていました。


朱硝子にて

 女性店員と男性客に見送られ、わたしは朱硝子へ向かいました。夜の翼から朱硝子までは徒歩15分程度。その日は11月の中旬にしては暖かい日でしたが、さすがに夜は少し肌寒く感じました。
 それでも、ウィスキーと偽電気ブランのおかげで身体も心もポカポカです。
 夜の京都は、本当にどこからやってきたんだろう……と思えるほどたくさんの人で賑わっていました。このうち2/3は狸で、わたしは狸に化かされているのかもしれません。

 朱硝子に着くと残念そうに肩を落としてお店を出ていかれる数名のお客とすれ違いました。見送りに出てきた男性店員が「今日はお客さんが多くてね……」とぼやきました。蛙1匹入れないくらい混んでいるのは大袈裟ではないようです。
 男性店員の頭上には、弁天が持ってきたという看板が美しく輝いています。紛れもなく『有頂天家族』の朱硝子の看板です。
 「さっきお電話くれましたね、どうぞ」
 「あの、この看板……」
 「ああ、こちらは弁天さんが持ってきてくださったんですよ。素敵でしょう」
 本当に弁天が持ってきたんだとポカンと看板を見つめました。
 「どうぞ」男性店員に促され入店すると、店内はたくさんの人でにぎわっています。
 「繁盛してますね」
 「舞台の影響でしょうね」
 「確かにお酒をのみたくなる舞台でした」
 「そう言えば、矢三郎さんが来てますよ」
 「え!?矢三郎まで……!」どういうこっちゃ!出かけた言葉を飲み込みつつ男性店員の指した方を見ると、確かに矢三郎が矢三郎と思えぬくらい静かにお酒を飲んでいます。
 また騒ぐ阿呆の血をおさえそこなって、弁天にでも追われてるのでしょうか。
 お酒の席と逃げる狸の邪魔をせぬは大人のたしなみ。好奇心は胸の奥の方へしまい込みました。
 案内されたカウンターの一番出入口に近い端の席に腰かけ、素知らぬ顔でやはりハイボールを頼みました。

 ハイボール、偽電気ブラン、赤割り、またハイボール。しばらくお酒を飲んでは目の前の書籍に目を通していました。いつもは店員さんにかまってもらいますが、今夜に限っては店員さんは狸の手も借りたいほど忙しそうです。
 夜の翼で出会った男性客は洛中の狸が化けて出てきているようだと比喩してましたが、確かに朱硝子に押し寄せる人の波はひくことがありません。ホクホクした笑顔で入店する人もいれば、運悪く肩を落として帰って行かれる人もいます。
 入店できる人、できない人を眺めているうちに、もしや押し寄せる人々は本当に狸でこの世界線の偽右衛門選挙は今日なのではないかという妄想が過りました。入店できた人たちは実は狸が化けているのではないか。すると、やはりわたしも狸なのではないか……。
 そんなことをぼんやりと考えていると、一人の客が店をあとにしようと出入口に歩み寄ってきました。彼を見送りに店主もカウンターの向こうから姿を現します。
 「お客さん、矢三郎さんだよ」
 通りすがりに店主に声をかけられて、勢いよく振り返りました。
 確かにそこに矢三郎が立っていたのです。
 「この子、森見さんのファンでね、よくこのお店にも来てくれるんだよ」
 「ああ、そうでしたか」
 矢三郎は丁寧な口調で店主に応え、わたしに軽く頭を下げてくれました。「どうもどうも」とわたしも胡散臭く頭を下げます。
 「今日は舞台観てきた?」店主に問われてうなずくと、矢三郎にも「楽しかったですか?」と問われたので、それにもぎこちなくうなずきました。
 「いつまでこっちにいるの?」わたしの緊張を察してか店主は話を逸らし、店主と矢三郎は旧知の仲のように気軽げなやりとりを始めました。
 「もう少しいるつもりです」
 「また弁天さんを怒らせたんじゃなかろうね」
 「だとしても、三十六計逃げるに如かず。今度こそ逃げ切ってみせますよ」
 出番はこれまで。緊張から解放された心地になりつつも、手持ち無沙汰にもなりました。二人の会話を何気なく盗み聞きしながら、ハイボールを一口飲みました。
 「お客さん、明日帰るんでしょう。握手してもらったら」
 突然の店主の計らいに、胃の腑に落ちたばかりのアルコールが一瞬にして血管を駆け巡りグワーッと頭まで巡ってきたのを感じました。
 「いえ!そんな…!いいんですか……!?」
 「もちろんです」
 店主の代わりに矢三郎が気軽な様子でこたえてくれました。
 手が汗ばんでいては困ると思い、お手拭きで拭いてから手を差し出しました。矢三郎は両手で優しく手を握ってくれました。狸の手はきっと毛深いだろうと思っていましたが、男性らしい温かな手でした。
 「弁天さんに見つからないといいですね」
 「はい、ありがとうございます」
 照れたり緊張すると素っ気なくなるのは、わたしの悪いくせなのです。こういうとき、もっときゃぴきゃぴできたらいいのかしらん。
 それでも矢三郎は嫌な顔一つしません。
 「また、どこかで」
 爽やかに笑い、去っていきました。

 颯爽と去っていく矢三郎の背中を見送りました。きっともう会うことはないでしょう。一生分の幸運を使い果たしたような気分です。
 「ありゃあ、罪な男ですわ」
 「いやぁ、まったく」
 わたしがぼやくと店主はいつの間に作ったのか、偽電気ブランを差し出してくれました。
 偽電気ブランを飲み、時空を超えて看板を拝借してくる弁天の噂を聞き、とても紳士的な矢三郎に出会う。まるで、森見作品の世界を遊泳したような気分になりました。
 電気ブランを一気に飲み干して立ち上がりました。そろそろピカチュウたちを寝かせなければ、100点を取り逃してしまいます。狸も大事だけれど、ピカチュウも同じくらい大事。
 「帰ります」
 わたしが高らかに宣言すると、やはりカウンターの奥から店主がサッと姿を現しました。
 「気をつけて」店主に見送られながら、わたしは再び夜の京都へ躍り出ました。
 さみしいですが、もう旅の終着点は決まっています。そこにに辿り着いたとしても、きっとこの素敵な夜のことは忘れることはないでしょう。
 さんざめく夜の京都を意気揚々とかき分けながら、わたしは終着点を目指して歩き出しました。

おしまい!
(タイトルはとある方の投稿から拝借させていただきました。ありがとうございます)

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