【創作】Dance 5
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第5話 想像すること、毛糸と額の絆創膏
はぁ、はぁと息が切れる。
心臓の音がどくんどくんと体中に響いていて、まるで自分自身が心臓になってしまったかのようだ。
汗が額から落ちてアスファルトをしめらせた。
いったん自転車をこぐのをやめ、星一は空を仰いだ。
西から吹く風がどこからともなくふわっとやってきて星一の体を通り過ぎていく。
カラスが遠くで鳴いている声が聞こえる。
日が傾いて影がのびてきている。
思いつくところは、探しつくした、と思う。
町内の公民館
家の近くにあるスーパー
角のコンビニエンスストア
ご近所さんのおうち
花屋さん
………
公園………?
また自転車をこぎだしていつもの公園に向かった。
星一はさきほど起きた出来事を思い出していた。
今日は学校が休みであった。
星一は家でカメラの機材の点検をしていたが、不意に自宅内から怒鳴り声が聞こえてきたのでリビングに顔を出した。
見ると、母親と祖母がその場に立ち尽くしていた。
祖母は少しずつ少しずつ認知症の症状がここ数年で進行してきていると、かかりつけの医者からも指摘を受けていた。
脳血管の血流が滞っている箇所があり、それが影響を及ぼしているようで、脳の血流をよくする薬などを飲んではいるが、根本的な治療は望めず「食生活や生活習慣などを見直していきましょう」とにっこりと医師に言われた時には、母親は「ああ、この状態は変わらないんだな」と苦笑いをし、途方にくれてしまったと姉にはこぼしていたようだ。
症状としては、物忘れなどの記憶力の低下、感情のコントロールができず怒りの感情に支配されてしまうこと、歩き方がたどたどしくなってきていて外では杖を使わないと転びやすくなっていることなどが見られている。
星一の家族は父親が単身赴任中であり、姉が大学在学中で一人暮らしをしているため、現在一緒に生活しているのは祖母、母親、星一の三人である。
祖母は昔からではあるが星一の母親にきびしく当たることが多かった。
それがここ数年、加速している。
眉間のしわを深くし、目はつりあがる。
口からは母親をなじることばだけがすらすらとよどみなくあふれ出てくる。
「お前は大した苦労もせずにのうのうと暮らしやがって」
「息子がなんでお前なんかを選んだのかわからないよ」
「役立たず!家を出ていけ!!」
星一の母親はおとなしい人であった。
いつも黙って全てを受け止めている。
彼女は「無」になる。
空虚な存在となりぽっかりと穴が開いてしまっているようだ。
その場にいるのに、いないようにひっそりと息をひそめている。
時には体が硬直し、ふるえていることもある。
星一はその度に仲裁に入る。
いつも思う。
どんなことばが届くのだろう
どんな気持ちを相手に伝えたらいいのだろう。
俺は家族に対して何ができるのだろう。
俺がいない時は母親はどうしているのか。
父親の声が響く。
「お前がいると頼りになるよ」
ことばなんて…不自由だ。
星一は2人になげかけることばすら思い当たらない。
ことばは武器になり、相手をいとも簡単に傷つける。
傷つけた相手を「癒すことば」なんて、そんなこと……
なんて浅はかでチープなんだろうと思う。
そして祖母のことを疎ましく思ってしまう自分にも星一は吐き気を覚えていた。
「いなくなってしまえばいい」
そんな悪魔のようなささやきが頭に浮かんでくることも、一度だけではなくこういう場面に出くわすたびに何度も何度も思い浮かんでしまうのだ。
祖母は何も反応がない母親に対して徐々に興奮している様子が見てとれた。
そして、とうとう母親に手を振り上げた瞬間に
星一は祖母と母親の間に入り込み、祖母の手を払いのけてしまった。
祖母はバランスを崩し、その場に倒れ込み、近くにあった椅子の角に額をぶつけてしまった。右の額から血を流している事に3人同時に気づいたが、祖母は大きな声を出して家をそのまま飛び出してしまった。
星一と母親はしばらく動けなかった。
動きたくない、というのが正直なところだった。
また悪魔のささやきが現れる。
「いなくなってしまったから良かったじゃないか」
ふと顔を見上げると、壁にかかっている、父親からもらった赤い星のキーホルダーが不意に目に入る。キーホルダーが星一を見ているような感覚になる。背筋が自然と伸びる。
星一は気持ちを立て直した。
「俺がばあちゃんを探してくるから、母さんは家にいて。もし、ばあちゃんが帰ってきたら携帯に連絡入れてくれないかな」と告げ、足早に家を出た。
公園の階段を息を切らして駆け足でのぼると、見慣れた姿がそこにあった。
結月が階段の上からゆっくりと下りてくるところで、二人の目線が合った。
「星一くん、どうしたの?探し物?もしかしてまたキーホルダー?」
にこっと結月は笑顔を浮かべる。彼女は少しずつ星一にも冗談を言うようになっていた。そのことを星一は嬉しく感じていた。
目が覚めた。
我に返る。
あせりすぎていたのかもしれない。
きりきりとぜんまいを巻くように
調子が合ってきた。
歯車がまわりだす。
星一は彼女にも知恵を貸してもらうことを決意した。
今までこの事は…家族の問題だから誰にも…潤にだけしか話していなかったけども、話してみようと思い、彼女に時間がもらえるか確認し、今日の出来事について話した。
ブランコに乗りながらひとしきり話し終えたあと、結月はぽつりと話し始めた。
「こういう時ってね、私は相手の気持ちを想像したいなって思う」
「認知症というものが私はよくわかっていないかもしれないけども、でもおばあちゃんはずっと長く生きてきて、長く経験してきたことがあって、つらいことも苦しいこともうれしいことも…たくさん見てきたんでしょう。なにかそこからヒントになることがないかなぁって…」
「私は踊っている時にいろんなことを想像する。それは自分であって自分じゃないの。うまく言えないけど……いろんなものが流れ込んできて、それが出てきてるんだと思うの。そこにね、たぶんみんながいるの」
「想像する事って、人を想う事だと思う」
「想う事は、きっと何かを動かす力があると私は信じたい」
星一ははっとした。
母さんを守りたいという気持ちが風船のように膨らんで、ばあちゃんの気持ちの風船は穴が開いてしまったかのようにしぼんでいた。
星一は目を閉じて祖母を頭に思い浮かべた。
そして結月にゆっくりたどたどしく伝える。
たぶん…祖母はできないことが増えたのだと思う。
失敗することが増えた。
そしてそんな自分に苛立っている。
自分でしまったものがどこにいってしまったのかを忘れてしまい、母親を責めたりする。
排泄を失敗して隠したり、人のせいにしてやり過ごしている。
もともと祖母は完璧主義の人であった。
星一の祖母は、早くに連れ合いである夫、星一から見ると祖父を事故で亡くしていた。女手一つで星一の父親である子供たちを育てあげた彼女は、仕事を選ばず働きづめの生活を余儀なくされていた。大正時代に初めて女性ドライバーが現れたという歴史があるが、昭和初期から中ごろにかけても当時はものめずらしかった女性ドライバーとして働き、夜も内職をしながら生活をしていた。
父親は一度だけ祖母の運転するタクシーに乗車したことがあるそうだ。
白い手袋を両手にきゅっとはめて白いシャツを着て、チノパン姿の祖母はまぶしくかっこよく感じたそうだ。
さっそうとハンドルを切る姿、滑らかな運転テクニックに会社から表彰されたこともあった。
できていたことができなくなること。
人としての尊厳が失われること。
自分の世界の正しさがいとも簡単に崩れてしまうこと。
そんなことを想像してみる。それはどのような世界なんだろう。
どんなものが目にうつっているのだろう。
星一は今日のやり取りを思いだしていた。
気になった箇所があった。
祖母は「毛糸」を探していたようだ。
こんな暑い季節に「なぜ毛糸なんだ」と思ったが、母親に聞く限りでは、大事にしまっていた毛糸がなくなってしまった、母親が嫌がらせして捨ててしまったのではないかと、発言していたようだ。
星一が幼少の頃、祖母が作ってくれた手編みの手袋や靴下、セーターなどが頭にありありと浮かんだ。汗で冷えていた身体が自然とじんわりあたたまっていくのを感じる。
「ばあちゃんの場所、わかったかもしれない」と星一は結月に伝える。
結月もうなづき「私も一緒に行く」と同行してくれた。
2人は自転車で手芸屋さんに向かった。
手芸屋の店内にいた祖母の姿を見かけた時に、星一は自然と近づいて祖母の手を握りしめた。
祖母は「お前やお前の父親にセーターを編んでやろうと思ったのに、毛糸がないもんだから探しに来たんだよ」と涙をにじませた。
星一は「わかったよ、ばあちゃんありがとう」と言い、祖母のおでこの傷に絆創膏をぴたりと貼り付けた。
これですべてが解決したわけではない。
しかし、折れない芯のようなものを手にいれたように星一は感じた。
毎日の営みの中で「正解」なんてものはない。
特効薬もない。
魔法が使える訳でもない。
悪あがいて足掻いてみっともないことばかりだが
月のクレーターを飛び越えたり
クレーターを耕すこともできる可能性を
困難にあきらめないで何かにむかっていくことを
星一は祖母の手を取りながら、結月のはにかんだ顔を見ながら、信じたいと願っていた。
想像する事は人を想う事。
結月のことばが
結月のいつものステップのように
星一の頭の中で軽やかにリフレインをいつまでも繰り返し、踊り続けていた。
6話へつづく
挿し絵協力:ぷんさん