ネオンテトラのかのじょ
「細谷くんは長い髪の毛が好きなんだって。本当かな....」
彼女は机上に座って、楽譜を見つめながら独り言のようにつぶやく。
「ね、せんせ。先生はお正月はおもち食べたの?私は自分で焼いて礒部焼きで食べたよ。親が雑煮が好きじゃないから。でもおもちはなんだっておいしいね。」
僕が放課後、音楽室で仕事をしていると、半年前くらいから佐伯さんはいつの間にかよく顔を出すようになった。
「わ!」
背中を指でつつかれて僕は驚く。
あたりを見渡すが誰もいない。
机の陰からばっと彼女が飛び出す。「何してる?」とお決まりのセリフを話す。
はじまりから彼女は一貫してこの登場の仕方を変えない。
「あのねぇ」
「僕は餌じゃないんだから」
たまには抗議をしてみる。
「何が?」
「その『つんつん』ってされるの。魚が餌つついてるみたいじゃない?」
「何それー?私、魚?先生は餌?」
佐伯さんはくすくすと笑う。
「そうかもしれない。先生のところに栄養をもらいに来てるんだ。私」
「.....君は『ネオンテトラ』のようだね。」
「ネオンテトラ?魚の名前?」
「その鞄、青と赤の発光色。いつも目に入るから」
佐伯さんはコーラス部の道具をいつもその鞄に入れて持ち歩いていた。鮮やかな色が目立っている。
「ネオンテトラ....」
彼女は窓を見つめて息を吐き出すようにつぶやいた。
窓に伸ばした手の細さ、そして袖の隙間から見えるあざや火傷の跡。
彼女の家庭環境。学校側は全てを把握し切れていないものの、ネグレクトや暴力が影をひそめていることは断片的にも見えてくる。
好きなだけ、栄養にしたらいい、と思う。ここに来る間だけは自由にしなやかに泳いで、その発光色を煌めかせてほしい...と、僕は小さなささやかな願いを抱く。
人が人を救うなんて、そんな簡単なことではない。
いのちだいじに
RPGでAIの仲間に出す作戦。
そんな誰にでもわかるような簡単なことが、どうして容易く侵襲されて壊されてしまうのだろう、と。
心憂い、のだ。
つんつんとした
彼女の指の感触を、僕は今日も待ち望んでいる。
「人間が悪さをするのは
自己憐憫と罪悪感が正体って本当かな」
その日の彼女ははりつめていた。
いつもと明らかに違うところもない。けれども。
彼女の中の水分が膨張して、それは今にもパチンと破裂してしまいそうだった。
「先生と一緒にいるのにさみしくてごめん」
彼女は私に振り返り謝罪した。
「人といるほどさみしくなる。近づきたい、わかりあいたいと思うほど、遠くなるのはなぜかな」
「さみしくてもいいから」
僕は返す。
「何度でも来たらいい。ネオンテトラ、餌はいつもあるよ。
佐伯さんのさみしさはあなたのもので、僕が共有できるものではない。
みんなそれぞれ違うさみしさを抱えている」
「さみしさがあるもの同士、不意に何かをわかちあえて、心が震える瞬間が訪れたら。
それだけできっと生きていける、と
僕は信じていたいかな」
佐伯さんはその日以来
僕の背中を指でつんつんとすることはなくなった。
そして3年になったので
コーラス部も退部した。
ネオンテトラは、学校の中でたまに見かける。
赤と青の発光色の鞄は見えなくなってしまったが
僕は彼女と同じ水の中にいる自分も
泳ぎ続けているのだと自覚し
溺れないように
ただ、ここにい続けようと
その光を見失わないように
またあなたの指が、
僕をノックしても
しなくても
それはそれでかまわないから。
のびやかに泳ぐネオンテトラを
今日も僕は音楽室で思い描いているのだ。
※「指」ででてきたもう一つのお話を、置いておきます。
「われらのピース」よりこちらの方が私の手癖が全開なので、こちらはお蔵入りにしようと思いましたが、せっかくだから投稿してみました。
かしこ。