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娘のおにぎりと祖母とのさいごの別れ

前回の続きの話。

私は祖母の最期に立ち会えず、訃報を旅行先で聞くことになった。

旅行から戻る道中、私は「母」と「祖母」の関係性をぼんやりと思い浮かべていた。


母は祖母に対して随分と複雑な気持ちを抱えていたのは私もわかっていた。
母が時折こぼすそのことばの端々から滲み出るものを、何となく感じとっていたからだ。

「おばあちゃんに愛情をかけられた記憶がなかったのよね」


ある日、母はぼそっと私にこう言った。

母はどういう想いで発言していたのか、いまだに私には全てを理解することができない。

ここからはあくまで私の想像だ。

祖母は料亭の女中さんたちを使いながら女将として祖父の仕事を支えていた。その中でおそらく、あまり母親として娘と一緒に過ごす時間が取れなかったのだろう。「思春期の時は、母親なのに娘の私にはりあってくるような印象を受けた」という発言からは「母娘」という枠組みではない「女性同士」という複雑な関係性も祖母と母の間ではあったのかもしれない。

そして母には異母兄弟の兄が2人いたが、陰でいじめを受ける場面もたびたびあったらしい。

母を支えたのは、幼馴染の私の父であった。父の母は中学生の時に脳卒中で亡くなっていることを思うと、母親から充分に愛情を受けられなかったという似たような境遇が2人を引き寄せていたのかもしれない。

私が生まれたころから私の妹が生まれるまでと、私が高校1年生になってからは、私達家族、もちろん母と祖母も皆で同居をしていた。

2回目の同居は、2世帯住宅を新居として構えた。

玄関は一つなので、必ず祖母の部屋の横を私達家族は通る構造になっている。2世帯と言えども、私達家族は毎日、祖母と顔を合わせることが多かった。

母は祖母に対しては、つっけんどんな態度を取ることが多かった。「やることはやる。無駄な話はなるべくしたくない」という雰囲気が見て取れた。要件が終われば、その場から立ち去ることが多かった。

そして祖母も、母親からの行動に対して素直になれないのか、感謝の気持ちを述べられずに否定的な言葉を多く返していた。例えば、母の日で娘から洋服をプレゼントされても「こんな派手な服は着られない」と言ったり、旅行や外食に一緒に連れて行っても「やっぱりうちのご飯が1番。出かけても疲れるばかりだ。」と口にするばかりで「ありがとう」というその一言がなかなか出てこない。

お互いにかみ合っていない洋服のボタンのように
母と祖母はうまくその場におさまらない
むしろおさまろうとさえしていない気概も私にはひしひしと感じ取れた。

時は過ぎ....私は成人して専門学校に通っていた。
そして、同居している祖母は少しずつ体も心も目に見えて衰えてきていた。

ある日の事。祖母が「私の靴がなくなった。きっと○○(母の名前)が隠したんだ。」と言い始めた。

私はまっ先に「これは認知症の症状だ」と思った。

しかし、母に話しても「おばあちゃんは意地悪だから私を困らせたいのよ。」と言って取り合わなかった。

私は祖母の老いを直視するのがこわかった。そして母もおそらく同じ想いを抱いていたのだと思う。誰だってそうだ。私を包んでくれていた祖母は、気づかないうちに、小さく弱く私たちの助けがいる存在となっていた。

そして突然の祖母の転倒と骨折。

祖母は施設に入所した。

私の母は週2回、洗濯物を交換しに祖母のもとを訪ねていた。

施設生活の中で少しずつだが、祖母は変化を見せていた。

そして、とうとう私の母親に対して「いつも来てくれてありがとう」と言うようになった。

母は「何だか最近おばあちゃん、しおらしくなっちゃって張り合いがないね」と、ほっとしたような、さみしいような、とても複雑な表情を浮かべていた。

そして母自身も祖母に対して、家にいる時は聞かなかった長話なども、居室で腰をすえて聞いている様子を見せていた。

私は両者の関係性の変化を、孫としていつも近くで感じていた。それは単純な流れではなく、時には濁流のように、時にはあふれるように、そして少しずつ少しずつ水面は平らになって、穏やかな流れとなり、今まさに静かな局面を迎えていた。



私が旅行先から戻った時には、祖母の遺体はすでに葬儀場に移動していた。
体も清められていて死化粧も施されていた。とても安らかな顔をしていた。頬がやせていて、もともと小柄な体がさらに小さくなっていた。

私は母を見つめる。

母は慰問客の相手でかなり忙しそうであった。
気丈にはふるまっていたが、祖母の終末期を1番近くで寄り添って支えていたのだ。積み重なっていた疲れが、ふとした瞬間に見え隠れしていた。

通夜式が終わり、明日は告別式を迎える晩。

私は自宅で祖母の棺に入れる手紙を書いていた。

気がつくと私の娘が近くに来て私を眺めていた。
まだこの時、娘は6歳であった。

「おばあちゃん明日でお別れ?」

「うん、そうだよ。ママはひいおばあちゃんにさいごのお手紙を書いているの。棺に入れて天国に持って行ってもらうんだよ。」

「あなたはひいおばあちゃんに持って行ってもらいたいものはある?ひいおばあちゃんはきっと喜ぶよ。」

「○○(娘の名前)はねー、じゃあ...これ作るね。」

娘は折り紙を持ってきた。私のそばで折り始めた。

小さい手で真剣に折り紙を合わせる。

そして、完成したのは
おにぎり
だった。

きっと保育園で習ったのだろう。今度はペンを持ってきてお米に見えるように白い所に模様を描いている。

「おばあちゃんはおにぎり好きでしょー?いっぱい作ればきっとお腹がすかなくていいね。」

娘はそのあともおにぎりを何個か作った。

私は娘と一緒に折り紙で卵焼きを作った。それはまるでピクニックのお弁当のようだった。私は娘が乳児だった頃、祖母と近くの大きな公園に出かけたことを思い出していた。そういえば、あの時も祖母はおにぎりを食べていた。花が好きな祖母は花畑に大変喜んで笑顔を見せていた。


「じゃあこれを....明日ひいおばあちゃんのお別れの時に渡してね。」

娘は小さく、そしてコクンとしっかりと頷いた。


あくる日、告別式が始まった。晴天の空は突き抜けるように真っ青だった。たくさんの人が集まり、式は滞りなく進んだ。
そして納棺の時間となった。祭壇のお花を職員が手渡ししてくれる。次々に色とりどりの花束が祖母の身体を埋め尽くしていく。

副葬品を入れる番になり、祖母の大切にしていた着物や遺品、手紙などが、親しい人たちから手向けられていく。

私と娘はゆっくりと近づき、持ってきた手紙とおにぎりを入れようとした。

その姿を見ていた私の母は
私たちが入れようとしているものに気づき
大変驚いた表情を一瞬した後に
堰を切ったように涙を流していた。

そして娘に
「ありがとう。ひいおばあちゃん、おにぎり大好きだったものね。」
「さいごは食べたくても食べられなかったものね。」
「きっと○○(娘の名前)が作ったおにぎり食べてくれると思うよ。」
と頭をなでながら、笑顔で話しかけた。

娘もそのことばを聞いて少しはにかみながら、おにぎりをそっと棺に入れた。

私は横で見ていてはらはらと涙があふれて止まらなかった。

そして、娘の作ってくれたおにぎりが、母と祖母を最期に、より強固に繋ぎなおしてくれたことを感じながら、自分の手紙を祖母の近くに置いた。

祖母はさいごまで祖母であった。
母もさいごまで母だった。

でも彼女たちなりに不器用ながらも歩みよって最期には距離が近づけたのだと思う。

亡くなってからも思い返すと
私は自分の親と祖母に学ぶことがたくさんある。それは現在進行形で続いているのだ。

そして、観覧車を降りた祖母は

もう私は会うことはできないが

祖母の存在やあたたかみを感じる事が可能である事は

この時渡したおにぎりや着物やお稽古に使ったラジカセや私にくれたハンカチや
たくさんの物や思い出が
きっと、虹の架け橋のように広がって
また私たち家族と繋がる瞬間があることを

祖母がまだ私たちの中にいることを

私はその後幾度となく思い知らされるのであった。





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くま
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