あたたかい泥の中とレモンツリー
「愛を信じすぎちゃいけないよ」
隣にいる男性は青々とした芝生の上に気持ちよく寝転んでいた。吹き抜ける風はベンチの下を猫のような俊敏さで通り抜け、噴水の水しぶきと舞い踊りながら、道の途中で拾い上げた形の悪い葉っぱを、ひらりと彼の薄いブルーのラルフローレンのシャツの上に運んできた。
私の目は、まるで時間の速度が遅くなったように明瞭にそれらを捉えた。ことばと思考が一致しない。体が泥に沈んでいく感覚がする。
耳から入ってきたことばをもう一度、脳内に戻す。そして、コインランドリーの洗濯物のようにぐるぐるとまわす。私は、やっとのことで頼りないことばを紡いだ。
「何それ?」
「愛を信じちゃいけないなら......何を信じればいいの?」
同じく芝生の上に寝転んでいる私はスカートの裾を直しながら、ゆっくりと上体を起こした。乱れた髪の毛をさりげなくほどいて直し、首元のシルバーのネックレスを定位置に戻す。
「うーん、信じすぎちゃいけないってだけで、信じるなとは言ってないんだよ。ほら......君が好きな『ノルウェイの森』の緑。彼女がギターを弾きながら歌うシーンがあるでしょ。さっき言ったのはその歌の一節。『Lemon Tree』ってタイトルだよ」
レモンの木。
隣にいる章くんの声が徐々に遠ざかる。私はまたあたたかい泥に入り込む。広島の瀬戸田の祖母の実家にあるレモンの木のことを、今度はぼんやりと思い出していた。
私が生まれた時。
祖父はもう亡くなっていた。
戦中、福島で生まれた彼は家族と共にパラオに渡った。終戦後家族と引揚者として帰国した彼は、戦後開拓者として各地を移動し、瀬戸内海の地で育った祖母と出会う。
祖母はよく、料理の下準備をしながら祖父の戦中の話を私に語った。パラオでの生活は悲惨だったこと。芋畑を守るために銃を幼い子供でも持たされたこと。日本からの食糧供給はほとんど途絶えてしまったこと。自分たちが作った作物でさえ、移民という立場では全てをもらうことはできなかったと。
祖父はパラオのレモンの話をよくしたそうだ。パラオではレモンを「キンカン」と呼んでいたらしい。
祖父はレモンが好きだった。先の見えない生活の中で、瑞々しい酸味が栄養失調気味の体や心を目覚めさせてくれた。レモンの刺激で生き返るような気持ちになった、と。
祖父は庭にレモンの木を植えたが、その後、肺の病気で若くして亡くなってしまった。そして、祖母がレモンの木を引き継いで大事に育てた。
「さぁ、レモンしぼろうかね」
にっこり笑う祖母のまなざしはやさしく、私の頭を心地よく撫でた。
祖母は祖父の木からレモンをもぎ取っては、様々な料理にかけた。揚げ物、焼き魚、紅茶、お醤油にレモンを入れたレモン醤油はいつも冷蔵庫に冷んやりと常備されていた。
祖母のレモンの木を慈しむような姿に、私は魅入られた。まるで愛する人のように、大切に大切に、虫がつかないように、嵐で折れてしまわぬように、寒さで凍えないように、毎日かかさず手入れをした。
しわしわの手で幹を撫でる。葉っぱを丁寧に剪定する。祖母はレモンの木と共にいた。そしてレモンの実をいつも台所に無造作に転がしていた。愛する人の愛するものをそばにおいて、今いる愛する人たちのために手の込んだ料理をふるまう彼女に、私は深く大きな愛を感じた。
愛は人を生かす。
存在がなくなっても、遠くに離れても、人を人たらしめる。私という存在を照らしてくれる。私にとって、今隣にいる男性は、彼自身は鈍感で気づいていないようだが、間違いなく私は彼を必要としている。
大学の飲み会で知り合った彼は、周りの賑やかで派手な男性たちとも、オタクで距離感がつかめないダサい男性たちとも、笑いをとって男友達とバカやってるやつらともひと味違った。
祖母が亡くなり、恋人にも振られたばかりの私は正直、飲み会に参加するつもりもなかった。
私はどこにもいけなかった。私の気持ちも私の体も私の魂も、行き場はない。こんなことが起きるはずもない。
けれども、最初からこうなるはずでもあった。
世界は変化し、永遠なんてものはない。
大人になってわかったことの一つ。
彼は静かにその場にいた。そして、酔った友達の介抱をしたり、早く帰る女の子のためにタクシーを手配した。グラスのお酒がなくなったことに真っ先に気づいて注文を尋ねたり、ごく自然にその場が整うように気配を出さずに絶妙に存在していた。
あぁ、私だけが見つけてしまった。
彼が忙しなく動く合間に頼んでいた彼の飲み物がふと気になった。
ためらわず話しかける。
「ペリエとウォッカと......レモンの組み合わせ。僕の好きな飲み方で......」
「シベリアン・エキスプレス!?」
私は息急き切って、彼のことばを遮ってことばを発した。
鼓動が早まる。心臓がどきどきと早鐘を打つ。
間接照明が彼の顔を右から照らした。おだやかな笑顔をたむけながら、彼は言った。
「君も村上春樹、好きなの?」
レモンの香りが鼻をかすめる。胸が疼く。手のひらをぎゅっと握る。私はあるフレーズをやや大げさに聞こえるようにわざとらしく発した。
「私たちはお友だちになった方がいいと思うの。もちろんあなたがそれでよければの話だけれど」
「羊をめぐる冒険!」
彼に意図が伝わった。私たちはほぼ同時にハモりながら作品名を答えた。
ゲラゲラと笑いながら乾杯を交わした。
それ以来、私は彼の泥に沈み込んでいる。
「この歌は、お父さんが少年に『愛を信じすぎちゃいけないよ」って教えている歌なんだ。『愛はこの素晴らしいレモンの木みたいなものと気付くだろう』って」
章くんは立ち上がってズボンの草や土を払った。胸の上に乗っていた欠けた葉っぱは、ひらりひらりと彼から落ちて、公園の水路へと消えていった。私も立ち上がった。水路の水の流れる小さな音が耳にまとわりついた。
風は激しくなり、公園の街灯を大きく揺らした。空の青はまぶしすぎていささか乱暴に思えた。
『愛はこの素晴らしいレモンの木みたいなものと気付くだろう』
いつの日か私たちは思いが通じ合い、愛し合うだろう。お互いをお互いに刻み込んで、染み込ませて、なくてはならないものになるのだろう。祖母が慈しんだレモンの香りが泥の中にただよってきた。
苦くて
甘い。
狂おしいほどの愛。
いつか私は彼に伝えると思う。
「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことをずっと覚えていてくれる?」と。
昔「ノルウェイの森」の直子に憧れた。
私が私として生きるために
私はあなたの中に私を刻む。
レモンの香りはいつまでもただよい続けていた。
あやしもさんのレモンのお話を遡って、純度100%の村上春樹的に狂おしくしてみました。
村上春樹さんが苦手な方は本当にごめんなさい。
やれやれ。
作中歌、貼っておきます。