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「消費される」

ナイキのCMが話題になっていたのは知っていました。

私はこのことを知って、様々な記事や、まわりの人々の意見を気にするようになりました。

もちろん夫とも話しました。

ナイキジャパンの広報は12月1日、J-CASTニュースの取材に対し、CMの意図だけに絞って次のようにコメントした。
「このフィルムの目的は、若者が自分の望む変化を生み出し、自らの未来を形成するために力づける手段としてスポーツを推進することです。私たちは、スポーツがより良い世界がどのようなものであるかを伝え示す力を持ち、世界を前進させるポジティブな変化を促す原動力になると考えています。ナイキは声を大にしながら全ての人々に対する包摂性、敬意と公平な対応を訴えていきます」

ナイキジャパンの広報のコメントは非常にすっきりしていてスマートです。でも、それを取り巻くものたちは混沌とし、すっきりとはしていません。

今日、またひとつの記事を読みました。

この記事を読むまで、「特別永住者」という人たちのことを知りませんでした。大変恥ずかしい話です。

穴があったら、もっともっと深く穴を掘って、掘り続けたい。

そして穴の奥の光が届かない暗闇でうずくまっていたい。そんな気分です。


NIKEのCMのようなものが増えれば日本はよくなるだろう。だが、《よくなるとは、一体誰にとって?》と私は思ってしまう。そこに住むマジョリティの日本人が構造的差別に目を向けないままに、「差別は許さない」というメッセージを消費し、気持ちよくなれるという意味だろうか。マイノリティはその踏み台として人生を捧げないといけないのだろうか。(記事より抜粋)

「消費される」ものたち。

差別を一つのコンテンツとして消費し、安全な場所にいて全く血を流さない私たち。


今日は東京大学の臨床死生学・倫理学研究会のオンライン講座で、磯野真穂さんのお話を聞きました。

その中で、「消費される死」ということばが出てきました。

報道は、コロナで亡くなった芸能人の方(志村けんさんや岡江さん)について、その弔い方を衝撃的に報じていました。

そして当時、小池都知事は「志村けんさんは、悲しみと新型コロナウイルスの危険性について、メッセージを届けて下さったと思う」とコメントされていました。

しかし、志村けんさんは果たしてそのようなことを思いながら死んでいったのでしょうか?本人がそんなことを考えていたなんて誰がわかるのでしょう?

このことについて、磯野さんは「私たちは他人の死をつかってそれをとおして語ることがある」とし、しばしば嬉々として語っている側面もあると話していました。

私たちは「死」のどういう部分を語りたがって、「死」のどういうところを語らないのか?ということを考えていかなければならない。

このメッセージは、人生会議や尊厳死、安楽死、コロナ禍での「死」に対しての捉え方、考え方について、改めて議論が必要なことであるということを強く訴えかけていると思います。

同様に差別に関しても、少なくともわたしの子どもたちに関しては、CMを見て「ナイキは格好いいじゃん。これからもナイキを買おう」で終わってしまうような人になってほしくありません。

私はまだ、ナイキのCMが投げかけたものとそれを取り巻くものに対しての意見を持ち合わせていません。

今はただ、もっともっと深く井戸を掘るように、穴を掘り続ける作業が必要であると考えています。そして、自分の手がすり切れてやっと血がにじんでくるまでは、語ることばを持ち合わせている資格すらないのではないかと思っています。

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