Reply to blue letter(professional, rabbit)
どーも!
ジョージ・クルーニーです。
始まりをしれっと「高田純次さん風味」にしてみました。
くまです。
お手紙をまた打ち返します。これで完結するはず。
間が空いてしまいましたが
前回はこちら。
AOIROさんのお手紙にお返事を書いています。
紙のお手紙ではないので、しろやぎさんくろやぎさんよろしくむしゃむしゃ食べちゃって、なんでしたっけ?とならないのは、ありがたいことですが。
たまには紙のお手紙も書きたくなりますよね。
うちの娘がただ今絶賛不登校中なのですが、お友達からお手紙を先日頂いたそうなんです。
もちろんLINEで繋がっていて、電話もメールも普段からしている子なのですが、なかなか風流だなと思いました。
さて
話を元に戻していきます。
前回はゲームやライオンくんにまつわる話を振り返りました。
AOIROさんの記事。
読み進めて頂けるとおわかりかと思いますが題名にも記されている通り
「ライオンさんとウサギさんでくまさん」
なのです。
そして、前回も私はライオンくんとウサギさんが、実際のところはおそらくグラデーションになっているのではないかということを告白して終わりました。
前回の記事やAOIROさんの記事を読んでいない方は
「なんの動物園の話だ」
と、途方に暮れてしまうと思いますが
そんな不親切な仕様でも気にせず、すすめて書いていきます。
さて(2回め)
私はライオンくんでもウサギさんでも、
もやっと
を抱える時があるという話をしました。
もやっとについて書く前に、AOIROさんが取り上げてくださったのはこちらの記事です。
なんというか、重たい話ですね。
自分で言うのもあれですけども。
でもこれが私の日常で。
特別なことでもなくて
けっこうな頻度で悩みます。このケアに携わるお仕事。
AOIROさんの記事でこのように書かれている箇所があります。
私も好きではないのです。
特に怒りの感情というものをかなり恐れています。
どうやって相手の怒りから逃れようかと、かしこくもない頭をフル回転しております。そして、そのために、遠回りというか、本来やりたくない事もふまえて立ちまわっている場面も、私も日々、往々にして多いのです。
波が平らのほうが好きです。
穏やかな水面。
透きとおって底が見えるくらいの静まった景色。
でもどんなに注意していても
怒りは不意に私に降りかかります。
私自身から湧き出る怒りもあります。
おっしゃるとおり、怒りは伝播します。
小さなさざ波は少しずつ重なり合って、いつしか巨大なウエーブとなって、もしかして誰かを飲み込んでしまうかもしれない。
何の気なしに いやだいやだとお互いにボールをパスしていたら、気づいたらそれが爆弾のようになってしまって、ある日爆発してしまうかもしれない。
それはただ一人の人が責任を負う事ではなくて、構造的な社会の大きなゆがみが1人1人を飲み込んでしまうこともあるかもしれない。
(そう考えてしまうので、私はどうしても自分に悪を見出すし、二項対立には陥りたくないなというのが心情でもあります)
ここがおそらく肝なのです。
からだとこころはやはり繋がっています。
不自由さというのは
人を簡単に不健康にします。
AOIROさんのいうところの泥のような「あふれでたなにか」「澱」
泥に入り込むと、世界が分断されます。
私と世界の対立になって、ぐっと視界が狭くなります。泥しか見えなくなってしまう。
今回の話では、私の仕事の対象者さんたちを思い浮かべていると思いますが、それはただ単純に「体が思うように動かない人」を想像する方が多いと思います。
しかし、そうではなくて、そこから同時に発生している心の不自由さがかなり大きく影響を及ぼしています。
それは....今の、生産性効率性を重視した資本主義の国において「働けない人」「何も生み出さない人」という私たちの奥底に植え付けられた価値観が一つあるということ。
何も生み出さないものは
生きている資格がない
お金を生み出さないものは
価値がない
という、かなり偏った思考です。
これらが絡まり合って、私たちはたとえ意識しなくとも、お互いの力を測りあいながら、弱きものを知らずと攻撃してしまう。
弱きものはもちろん自分も含まれます。人間誰しも弱き部分を持っているのです。
障害を持った人というのは、自身の不自由さを表現されている方が多いです。
それは身体的にも精神的にも社会的にも感じる、自分が「ただここにいること」が叶わない不自由さ。
「する」をしないと「いる」ができないと誰しもが思い悩むのです。
私にだってそういう時があります。
身体の不自由さがあると、さらにその思いは加速するだろうし、泥もたまっていくことは容易に想像できます。
ここにいるよ
私がいるよ
というのは
人間は他者がいて
居合わせることを成してくれる人がいて
はじめて成立します。
私たちの医療福祉職は、少なからずとも、サービスを通じて関わることで、それを見ている人の一人にはなれるのです。
あなたは確かにここにいる
と、ただ思うこと、認識すること
そして一緒になって考えることを示すだけのことですが……そんなことがまず入り口として大事になってくると思うのです。
それができない方はプロではないと私は思います。
だから自分のことを「やさしい」なんて思った事はありません。
だってそういうお仕事なんですもの。
きびしいようですが、これは個人的な意見です。
AOIROさんの表現として
カウンセラーさんの
「限りなく透明になっていく」
AOIROさんの
「自己ということばの定義が違う」
というのは
このあたりにかかっている
話かなと思います。
ただ居合わせることだと私は思うのです。
「居合わせる」の先にあるのは、その方の「失ってしまったことば」「積み重ねてきた歴史」を一緒に探していく段階になるのだと思います。
ここからもやもやをどうやって私の場合は受け止めているのかの話をして終わりにします。
泥をどうしているのか。
そもそも泥は悪しきものなのか。
考えるヒントとして、私は心理士の東畑開人さんの本を参考にしています。
心を守る方法は「スッキリ」と「モヤモヤ」があるという話です。
「スッキリ」はことばの通り、どこかに愚痴を言ったり、関係性を解消したり、気分転換をしたりといった、そういう行動をすることで、気分を落ち着けたり持ち上げる方法です。
「モヤモヤ」は不快で嫌な気持ちになります。
「スッキリ」は心から追い払っている。
「モヤモヤ」は心に溜める
ここで気になるのは「モヤモヤ」も心を守る方法なのか?というところです。
この本では
スッキリは「排泄」
モヤモヤは「消化」と表現されています。
スッキリは自分らしくいられる一つの方法ですが、デメリットもあります。
それは老廃物だと思っていたものの中にある大事な栄養まで捨ててしまうことです。毒だと思っていたものの中に苦い良薬が混じっている事もあります。
そして、東畑さんは「モヤモヤ」をこのように表現しています。
私はモヤモヤも自分が受け止められるときは、ある意味チャンスだなと思うようにしています。
そして人のモヤモヤに居合わせた時に、この人は今、次のステップにいけるかどうかの場面でもあるのだなと、思うようにしています。
東畑さんも推奨されていますが、もちろん極力まずはすっきりできた方が良いのです。
でもモヤモヤを抱えることは、そんなに悪しきものばかりではなく、暗部の中にも、泥の中でだって、きらりと光る今のその人にはない部分や、あったとしても隠れてしまった大事なカケラがあるはずです。
そして、こうやって私が断言できるのは、毎回ではもちろんないのですが、実際そのような場面に居合わせることができたからだと思います。
そんなことを最後にお伝えしながらお手紙をしめようと思います。
あ、あと。
先ほどの「生み出さない人」の話ですが
そこを突破する一つの力として
「アート」があると私は思っていて
アートは数値化できないことがいいと思うのです。
曖昧でバラエティに富んで、従来のアートは自由さがあると思います。
そんなこともありながら今、絵を学んでいたりするのですが
AOIROさんが生み出す世界が
表現されることばが
きっと誰かのどこかの心の奥底に静かに響いてるのではないかなと
私は勝手に確信しています。
これからも多様な青の世界を魅せてくださることを期待しております。
ありがとうございました。