おまんじゅうとチョコレートとケーキのどれが良かったのかは、あとになってみないとわからない話
どこかで聞いた話。(また、どこで聞いたか忘れてしまった。聞いた人ごめんなさい)
おやつが2個、目の前にある。
片方はおまんじゅう、片方はチョコレートとする。
「どちらを食べようかな」
あなたは目の前のどちらかを選んで食べる。
しかし、冷蔵庫には、あなたの大好きなケーキが入っていた。
でも、あなたは冷蔵庫に大好きなケーキが入っていることを知らないので、選択することができなかった。
選択肢に入っていないと選ぶこともできない。
そのような話だったと思う。
ここからは私がその話を受けて考えたこと。
なるべくなら、一緒に関わっている人をこのような状況にしたくない。
その人の選択肢や可能性をある程度、目の前に見せることが必要となってくる。
しかし、トランプのカードのように綺麗に見せられないかもしれない。
過去に他の人と行なってうまくいった例が、必ずしもその人と一緒にやってうまくいくとは限らない。その人とは初めての経験だし、能力や環境や生活歴や性格も違うからだ。
他の人がおいしかったケーキがその人もおいしいとは限らない。
昔おいしかったケーキが、状況が変わってしまったその人がまたおいしいと感じるかはわからない。
ケーキを食べる方法も変わってくるかもしれない。
そして、そもそもその人がうまく冷蔵庫を見つけられないかもしれないし、冷蔵庫を開ける気分にもならないかもしれない。
一番良いのは、その人が冷蔵庫にあるケーキにうまくたどりつけるように、しかけを作って1人で勝手に食べてくれたら私は「しめしめ」と眺めていればいい。
でもそれができない時、時折多少強引にすすめてしまうことがある。
同意は取りつつ、ちょっとした切迫感や緊張感をもって、「ほら少しだけ食べてみよう」と食べさせる。
その時は相手も余裕がなく、特に感想は得られない。
それが良かったのかどうかが後からわかることがけっこうある。
今日はある利用者さんから「あの時のあれは良かったから、また一緒にやってほしい」と言われた。
「あの時のあれ」から一ヶ月位経っていた。
時間が経たないとわからないものがある。
私は半ば強引だった自分に対しての罪悪感を、日々抱えながら過ごしているが、このようなことばを聞いて、ほっと一息ついて安心し、少しばかり罪の意識から開放される。
その時に、達成感とは違う何とも言えない気持ちになる。その気持ちは表現しがたいが、何かに「許されている」ような気持ちになり、今日もまた私は、少しずつ罪を重ねて生きていくしか手だてがないのだ。
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