カルシファーと木の家の話
人は生きている中で、人生の分かれ道のように大きな選択をする場面がいくつかある。
それはたとえば...高校への入学だったり、結婚だったり、就職だったり...そのどれもが簡単には決められることでもなくて、今後の自分の人生を左右する大事な選択であるのかもしれない。
「自分がどこで生きていくのか」というのもその一つである。
私は生まれ育った街でずっと長く暮らしている。
そして、よっぽどの事情がない限りはおそらく今後もこの街で暮らしていくのだと思う。
毎日の生活に必要なのは住居である。
マイホーム。
私の帰りを待ってくれる人がいる。
そして、待ってくれる家がある。
帰る時にほっとひと安心できるような、気持ちを棚卸しできるような、自分にとってマイホームはそんな場所であってほしい。
そして、家にいてもわくわくするような、家族と楽しく過ごせるような場所でもあってほしい。
今日はそんな私の住まいの話を書いてみたい。
遡ること18年前。
私たち夫婦は新婚後にお互いの実家を出てから、ずっとマンションで生活を共にしていた。
マンションは住宅街の一角にあり、静かな環境であった。
ベランダが海に面していて、天候が良い日は富士山を眺められるような素敵な景観が魅力であった。
夏場は港で行われる花火大会を、大きな振動を感じながら間近で見ることができた。
近隣の住人たちはシニア世代が多く、騒ぎ立てるような人もいなかったので、ご近所トラブル的なものも全く発生しなかった。
管理人さんは細やかな方で、マンションの住人たちとも割とコミュニケーションを取るタイプの女性であった。平日などは、管理人さんを交えてみなでロビーに自然と集まり、井戸端会議を開いている姿をよく見かけたりしたものだ。
また、私たち夫婦は結婚後にすぐ犬を飼ったのだが、飼い犬を散歩していても、穏やかに声をかけてくれたり、可愛がってくれる方も多く見られた。
このように、私たち夫婦は、何の不自由もなく、マンションでの生活を続けていたのだ。
引越しを考え始めた最大の要因は、子供が生まれたことだった。
私の子供は娘と息子である。
2人とも異性同士であったため、大きく成長した時に、それぞれの個室が必要であると私たちは考えた。今のマンションの広さでは個室の数が足りなかった。
「どこに家を建てよう」
そもそも家を建てるにも土地はない。
土地から購入するべきなのか...それとも、建て売りの住宅を購入するべきなのか。マンションのローン返済は今後どうしていくのか....。
ぼんやりとマイホームがほしいと思った私たちは、休みの日に住宅展示場に足を運んでみた。
どの家もきれいに整えられていて機能的でいまどきで素敵だなぁとは思ったが、正直どれもこれもピンと来なかった。
何度か建て売りの新築住宅を見に行ったこともあった。
「まあ、こんなもんなのかなぁ」
私も夫も、たぶんこれでもいいとは思っていたと思う。
けれども、将来的にここで過ごしているイメージが全然わかなかった。
そして、どこでも熱心に営業してくるスタッフの態度にも私たちはしっくりくるものを感じなかった。
そんな決定打となるような選択もできずに、ある日、夫ががんになった。
私は夫ががんになった原因として、遺伝など諸々の可能性もあると思ったが、一番は彼にストレスが大きくかかっていたことなんじゃないかと次第に思うようにもなった。
「なんとか彼がハッピーに暮らせるように、できることはしたい」
それが病気を治すためにも最善の策であると感じた。
そんな中で、ある日、夫がある住宅展示場に行ってみたいと話し始めた。
「この辺にはなくて。少し遠いけどいいかな」とつぶやいた。
「僕が好きそうなものがたくさんつまってそうだから気になるんだよね」
あまり自分の好みを主張しない夫からの意見に、私は喜び快く承諾した。
がんはまだ経過観察中であったが、私は「そんなことは後でどうにでもなる。彼が具合悪くなったらなったで、その時考えることだ」と、迷いもなく、後日夫と2人で都内の展示場まで向かった。
それがBESSの家との出会いだった。
夫も私も展示場に行って驚いた。
まずスタッフの態度。
明らかに他の展示場と違う。
他の展示場はスタッフが私たちにべったりとついてきて、見ている家の優れている点や買うべきポイントをここぞとばかりに主張する人が多かったのだが、BESSのスタッフは違った。
「ああ、じゃあ、あとはゆっくり見てきてくださいね」
見学の受付を済ませると、完全放置となる。
あ、あれ?
ついてこないんだ?
私も夫も拍子抜けしたが、そのまま2人で何軒かある会場内のモデルハウスを巡った。
そして、他のお客さんを見てわかったことがあった。
それは、来ている人がそれぞれの場所でくつろいで過ごしていること。
薪ストーブの近くでゆったりと座っているおじさん。
ウッドデッキで木製の巨大オセロに興じるカップル。
消防署にあるような滑り棒にしがみついて2階から楽しげに降りてくる子供たち。
玄関の上の天井まで高く一面を飾る本棚から本を取って読む若者。
吹き抜けのリビングのソファで流れる音楽に耳を澄ましている女性。
そして、何より、木の匂いである。
ログハウスがベースになっている建物たちは、壁も床も木の素材で出来ていて、入った時に独特のいい匂いがする。
足元も歩いていると、木のやわらかい感触を楽しむことができた。
いわゆる一般の住宅展示場とは違った雰囲気に魅了されて、私たちは時間があるとBESSの家の展示場に足を運んで、ゆったりとした時間を過ごすのが楽しみにもなっていった。
私たちを担当してくださったスタッフは、非常におだやかな青年で、端正な顔立ちを持つ若者であった。
彼は最後の最後までこちらの意見を尊重する態度を崩さず、余計な営業的な提案も全くせず、大変親身になってくれた。
私たちの息子が話しかけても嫌な顔一つせず、大好きな恐竜の話に相槌を打ってくれた。
そして、何より彼自身がこのBESSの家が好きだという「愛情」が彼と話していると伝わってきたのである。
すっかり彼のペースに乗せられた私たちは、自然とBESSの家を購入する気持ちで、頭がいっぱいになった。
そして、マンションの近くに売りに出されていたある区画の土地を購入し、無事にマイホームは完成したのである。
引っ越して良かったこと。
まず、私の持病である喘息発作が、マンションに住んでいる頃と比べて圧倒的に少なくなった。
これはおそらく住んでいる建物の素材によるところが大きいと思っている。
次は子供たちの変化。
それぞれの個室ができたことで、お互いに好きな趣味に没頭する時間が増えた。
そして、マンションの頃にはほとんどなかった、友達との交流も活発になった。自宅前の私道で遊ぶ姿がたびたび見られるようになった。
私たち家族は、この家がみんな大好きだと思う。
家にいるのが心地よいし、気づいたら家で過ごす時間が増えた。
コロナが流行っても、私たちは家にいることが正直それほど苦痛ではなかったかもしれない。
また、家の中にいて季節や自然を感じることが増えたようにも思う。
それは窓から一日中入ってくる日の光や、窓にぽっかりと浮かぶ月の姿を見かけたり。
季節や行事に関するアイテムを飾りやすくなったからかもしれない。
私はこの家にはカルシファーがいると思いながら住んでいる。
「カルシファー」とはジブリの作品の一つ「ハウルの動く城」に出てくる、火の悪魔である。
こう思うきっかけはある方にインタビューを受けたこと。
ある方とは、西村佳哲さんという働き方研究家を名乗るプランニング・ディレクターの方で「自分の仕事をつくる」などの著書が有名でもある。
私は彼の主催する「インタビューの教室」という研修会に以前参加していたことがあり、その中で彼本人に私がインタビューを受けるという貴重な体験をさせてもらったのだ。
いざ、インタビューをしてもらう時に、彼から「これから、くまさんにインタビューをしたいのですが、くまさんが大事にしている我が家について話を聞いてもいいですか?」と提案を受けた。
私は何気ない雑談の中で、私がBESSの家に住んでいるという話を聞いた時に、彼の目がきらっと輝いていたことを思い出していた。
私はその提案を喜んでひきうけ、家を建てるまでの話、建ててからの生活のことなどを話し続けた。
ひとしきり話したあと。
西村さんはこう述べた。
「カルシファーってご存知ですか?」
私は「ええ、知っています。『ハウルの動く城』に出てくる炎ですよね」と答えた。
「くまさんの家は生き物だなと思いました」
「まるで生きているかのように感じるんですね」
「それはくまさんが話す素振りがそのように感じさせるのです」
「家族が生きる力をもらえる場所。
そして薪ストーブの火。
まるでカルシファーのように。
それは、お互いに作用しあって、いいエネルギーを引き出しあっている」
「そんな印象を抱きました」
私は西村さんのことばを聴きながら、なぜか小さくぽろりと涙を流していた。
なんの涙かもわからずに、けれどもそれは私の気持ちのようにこぼれ落ちていった。
そして、さまざまなことを思い出した。
この家に越してきて、夫のがんは寛解を迎えた。
もしかして、がんになる前にあの建て売りの家を購入していたら...夫ががんと診断を受けた時にがん保険の補償がもらえて、住宅ローンは返済しなくてもよくなっていたかもしれない。
けれども...お金ではない...と思う。
私も夫も後悔していない。
夫は薪割りをしたり、庭を手入れしたり、家を愛おしむようにメンテナンスをしてくれている。
楽しむように生きること。
そしてうちと外の垣根を感じさせない設計。
全てが相互的に作用して
私たちは今この生活を過ごせているのだと思う。
そして、この家と共にこれからも生きていきたい。
選択とは、たくさんの中から一つを選ぶものではないと個人的には思っている。
選んだことから、また更なる世界が広がっていて、それは全体に繋がっているようにも思う。
そして、選ぶときは、ここだ!と確信的に選ぶ場面よりも、他者と混じり合いながら、楽しく巻き込まれながら、感覚に身を委ねがら、気づいたらここまで来ていたなぁと感じる場面の方が、私は圧倒的に多いと思う。
それは「自己責任」という冷たさを感じることばなんかとは、少し遠いところにあるものなのかもしれない。
そして、もしかして違った道を歩んでいたのかもしれない自分をたまに思うこともあるが、そこに私は嫉妬や後悔はなくて、そんなどこかにいる自分をも抱きしめていけるように、今の熱を感じながら。
うちのカルシファーと共に。
これからも過ごしていきたいと願っている。