なんでもない話
たまに世界に殺されそうになる。
こんなめちゃくちゃな世界に、私は打ちのめされて、圧せられて、スルメのようにのびてしまいたくなる。
むぎゅう。
他者がわからない。
自分もわからない。
こんな風にわからないまま
世界はどんどんすすんでいく。
時計の針は無常にもカチカチと音を立てている。
なんのために生きるのか。
なんのために生きるんだろう。
誰かの役に立つためか。
誰かの役に立てなかったら生きてちゃいけないのか。
子供を残すためか。
子供が産めなかったら生きてちゃいけないのか。
はたらくためか?
はたらいていなかったら生きてちゃいけないのか?
楽しむためか?
楽しいことがなければ生きてちゃいけないのか?
人を愛するため?
人を愛せなかったら生きてちゃいけないの?
なにか理由がないと
私たちは実存してちゃいけないんだろうか。
先日、私はことばにならない気持ちを抱えた。
この気持ちは
うれしいとか
かなしいとか
よろこびとか
そんな単純なことばがつくようなものではなくて
でも、なんとなく覚えておきたい光景だった。
訪問すると、電気が消されている。
「つけましょうか?」と言って彼女は電気をつけてくれた。
彼女の家の家賃は約4万円。
家の壁は砂壁で、手が触れただけで、砂がざらざらと落ちてくる。
床は汚れていて、きしきしと音を立てている。トイレは和式で、台所はコンロもついていない。
お金がないので、電気をずっとつけておくことができない。
携帯電話もお金が引き落とされずしょっちゅう通話不能になる。
生まれた時から、知的な障害と体の不自由さがあった。両親はいなくなり、祖父母に育てられたが、祖父母もいなくなって身寄りもない。
学校では友達にいじめられ死が頭をよぎった。
今はよくわからない素性の人にお世話になっているが、その人に通帳を預けているので、自分のお金がどのようになっているのかもわからない。前は一緒に住んでいたが、よくわからないままその人は別居生活を始めたので、彼女は1人になってしまった。
歩くこともやっとで、足をひきずっている。普段は床をはって生活している。福祉用具をかりるにもお金がないのでかりることもできない。もちろん貸家なので改修もできない。
風が吹くとがたがたと家中が音を立てて、揺れる。窓がうまくしまらなくなっている。窓を開けても隣のうちの壁が見えるだけで、空気も澱んでいる。
元同居人がコンビニ弁当などを購入して持ってきてくれるが、栄養面への不安があったり、本人も「もう飽きちゃった」というくらい、同じものを食べている。
やることもない。
ただ、見たくもないテレビをつけて
じっと家にいるだけである。
電話するような友達もいない。
これからこの生活がどんどん良くなる兆しは感じられない。
むしろ、彼女は歳をまた重ねるだろうし、足の筋力もだんだん衰えると思う。
私は彼女と接していると
生きているのってなんだろうと
生きがいって何?と
ふと思ったりする。
ひとつ圧倒的な事実がある。
私は私以外になれない
彼女は彼女以外になれないこと。
私は彼女の気持ちがわからない。
どうしたいのか
何を望んでいるのか
何をあきらめてこなきゃいけなかったのか
全く想像もつかない。
そんな私と彼女の織りなす40分の訪問時間は、とても穏やかに流れる。
私も彼女も
暴力的なコミュニケーションが
お互いに嫌いだから。
だからお互いの甘えや
できないことや
怠惰な部分も
甘々な甘いミルクティーみたいに溶かしてしまう。もっとこうしたら、もっとこうしてほしいを、私たちはまるでそれを言ったらいけないものとして取り扱っている。だから無理はお互いに言わない。ささやかに変えられるかもしれない部分について話し合ったり、あとは世間話をしている。
いつものストレッチ、体操を終えて
私はタブレットでyoutubeを検索していた。
彼女とジャニーズ問題の話から、タッキーの話になり、彼女がまだ若かりし頃に見たドラマのタイトルを思い出したかったからだ。
「松嶋菜々子が出てて...あの頃のタッキーがすごく良かった」
ああ!わかりますわかります。私、普段ドラマをあまり見ないのですが、宇多田ヒカルさんが主題歌でそのドラマは見てました。
えーと、なんだっけなぁ。タイトルはなんでしたっけ?
2人ともタイトルが出てこず顔を見合わせてふふふと笑いあう。
今日は少し早めに終わったからいいよねと私は勝手にこの状況を納得させながら、youtubeに「タッキー 松嶋菜々子 ドラマ」とワードを入れ込む。
「魔女の条件」
ああ、そうだった。これでしたよねー。
少しだけ見てみます?と第1話のシーンを2人で覗き込む。
タッキーは想像していた通り、とても端正な顔立ちをしていた。光が透き通っていってしまうようなきめ細やかな肌。力強いまなざし。乱れることなくすとんと落ちた金色の髪の毛。
若さが画面から迫ってくるようなエネルギーを放っていた。
彼女がやわらかくそのタッキーを見つめている横顔を私は見ていた。
「ああ、これは忘れないようにしよう」
私はなんとなくそう思った。
覚えておきたいと願った。
そして、その気持ちには名前がつけられないのだ。
取るに足らない
なんでもないような話。
私の好きな今泉監督は「物語を通して何も変わらない主人公に安心感を覚える」と話していた。
映画や小説に置いて、主人公が未知なる体験を経て変わっていく物語が多い中で
やろうとしたんだ、くらいの「やれた」が
きっとこのどうしようもない世の中には
ささやかながら存在していて
日常を織りなして
私たちを通り過ぎていってしまうのだと思う。
私たちは何かになれなくてもいい。
役割を持て
役に立て
成長しろ
はたらけ
生み出せ
なにかになれなくとも
ただ自分を
相手を
許せるように。
ただ、生きていて
そして死んでいくことを
受け止めたい。
私は世界に対して
また絶望して
1人になって
希望を見たくて
うちなる海を探している。
恐怖やよわさという荒波を経て
私だけの海を見つけたい。
絶えるその日まで
泳ぎ続けたいと願っている。