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【創作】Drops⑥

6話 やさしい星月夜とみえない信号機


「ゴッホってね」

「うん」

「色覚の異常があったんじゃないかってね」

「うん」

「言われてるらしいよ」

「えー---!!」

赤井さんは振り向きざまに大きな声を出す。


シーンと静まり返った館内に音が響いて、監視スタッフの女性がちらりとこちらを向いた気がする。

僕は赤井さんに「シーーーッ」と指を立てて注意喚起をする。
赤井さんは「ごめんごめん、悪い」と小声で僕に謝る。

僕と赤井さんは約束通り、日曜日に美術館に出かけていた。
日曜日ということもあって館内はそこそこ人手が多く、僕は人の頭のすきまから眺めることもできたが、背が低い赤井さんはそうもいかないので、ゆっくりと人の流れに身をまかせながら、僕たちは絵を鑑賞していた。


赤井さんは鑑賞する前に「絵に詳しくない」と自身の事を卑下するように、ぽつりともらした。

一緒にまわってみて思ったのだが、彼女の絵の見方というか、楽しみ方は、まるで子供のようだった。それは、少し知識がある人がうんちくを語ったり正解を求めるように見るのではなく、絵を見て思った事をありのまま僕に話したり、疑問をぶつけたりしていた。彼女がただ絵を見て、自身が感じたこと触れたことを純粋に楽しんでいる様子が見て取れた。

絵というのは本来そういうものではないかと、個人的には思う。正解はなくて、そこから受け取るものが個々で違っていていいのだと思うし、楽しみ方や発見はその人自身にアーティスト側も委ねているような気もする。

何をうけとり、何をうけとらないか。
それを決めるのは結局自分自身だ。

鑑賞後。
僕たちはミュージアムショップにいた。
赤井さんは「こんなの発見したんだー」と先日僕に、あるアプリを嬉しそうに紹介してくれた。それは携帯のカメラ機能で僕たち…..つまり色覚の障害がある人の見ている世界が体験できるといったものであった。

彼女は早速カメラアプリを立ち上げて、その機能を使う。
そしてポストカードやレプリカのゴッホの絵に向けてじっくりと携帯越しにのぞき込んでいた。

「本当は原画をこのアプリで見られたらいいのに….」とやや落ち込んでいる様子であったが、そんな事をしたら原画をカメラで撮影しているものと勘違いされそうなので、僕たちはミュージアムショップの物で代わりに体験してみようという話になっていた。

「ねえ、すごいの。」

彼女の瞳は震えている。
何がそんなにすごいのか。
僕はアプリを見ても当然ながら違いはよくわからない。

「あのね、うまく言えないんだけどね……確かにゴッホは色覚の異常があったのかもしれないって…..たった今思った。」

「どうして赤井さんはそう思うの?」

「なんかね、このアプリで見るとね、色がやさしいの。」
「私この世界のゴッホの絵の方が好きかもしれない。」

「今見てるのは星月夜だね。やさしい感じがするの?」

「うん。元の絵はね。混沌としていて暗さがあるんだけど、アプリで見るとね、少し色が明るくてね、このぐるぐるも怖くない感じがする。包まれている感じになる。」

赤井さんはこちらを振り返って話し続ける。

「今日は一緒に見ていて驚きがたくさんあった。私が見えている色と青野くんが見えている色はやっぱり違うんだって一緒にいてよくわかった。そしてこのアプリで見ると余計そう感じたよ。」

僕は頷く。

「うん。僕が捉えている色と赤井さんが捉えている色は違ったね。僕もあらためて勉強になった。」

「私はこの青野くんの世界も好きだよ。」

「ゴッホの絵は青野くんが見ている世界の方が素敵だった。」

「絵ってこんなにじっくり見たことなかった。青野くんがいなければ、きっともっと気にも止めずに絵を素通りしていたと思う。」

「今日は新しい発見をありがとう。一緒に来られて良かったよ。」


赤井さんはお土産を必死に選んでいた。

僕はミュージアムショップの近くのベンチに腰掛けていた。

なんでこんなに赤井さんは僕に親身になってくれるんだろう。

僕は今日、赤井さんと過ごせて本当に楽しかった。

こんなに楽しい時間を過ごすのは久しぶりだった。

僕は今までまるで透明人間のように生きてきた。人と交わらず、傷つけず傷つけられたくなくて、実家を出てから今まで当たり障りない人付き合いをしてきた。

一人は楽だ。

一人でいれば僕は自分の色が欠けていることなんか、忘れてしまう。

誰かと触れ合う事で、嫌でも欠けている自分と他人を比較してしまう。

世間は僕に「お前は普通じゃない」ということを知らせるように、現実を突き付けてくる。


けれども一人でいると、僕は自分が存在しているのか

ここにいるのか

どうしようもなくたまらなく不安になる時がある。

そういう時、僕は自分が透明になってしまったようだった。

僕は金魚を飼った。

金魚がゆらめいているさまを見ていると心が少し落ち着いた。

生きているものをただただ見つめていたかった。

けれども、僕には金魚の「赤」はいくら眺めても認識できない。

そして、また心が急速に冷えていく。

僕は自分を確かめるように街に出て、あてもなく歩いた。

聞こえてくる雑踏の人の声が、自分自身を確かめる唯一の生存確認だったのかもしれない。


僕は赤井さんといると、そういう孤独な悲しい気持ちはどこかに消え去ってしまう。
透明で色が欠けている僕の世界に
赤井さんは
赤い色を
少しずつ少しずつ
その名が示すとおり
雫のように
ゆっくりと垂らしてくれたのだと思う。

しかし、当の赤井さんは一体どのような気持ちで僕と一緒にいるのだろう。


先日、駅で見かけたあの男性の事を思いだす。

もし彼女に親しい人、懇意にしている大切な男性がいるならば

僕とこんな風に過ごすことは良くないことではないのだろうか。

何より赤井さんは僕の事を同情してこうして付き合ってくれているのではないか。それは彼女の貴重な時間を奪ってしまうことになる。

「あなたはかわいそう」

嫌なあの声が僕の頭の中で響く。

彼女も僕の事を「かわいそう」だと思って接してくれているのだろうか。


僕は頭が重たくなった。


帰り道、あんなに楽しかった雰囲気は一転して、僕はうつろな状態だった。赤井さんがいろいろと話しかけてくれているが、ちっとも頭に入って来ない。

その時

「危ない!!!」


僕は後ろから強い力で引き寄せられた。

ハッとして腕をつかんだ主を見る。

僕の腕を必死につかんでいた赤井さんは驚いた顔をしていた。

「大丈夫?ごめんね。危なかったんだよ。」

僕はどうやら信号が赤なのに横断歩道を渡ろうとしていたようだ。

信号機の色を僕は認識できない。

だからこそいつも「配置」でその色を覚えていた。いつだって細心の注意を払って点滅のランプの位置を見誤らないようにして道路を渡っていたはずだった。

ほっとした赤井さんは静かに僕の腕から手を離した。

「どうしたの?さっきからぼんやりとしていて。なんだか顔色も悪いみたい。ちょっとあそこで休んでいく?」

指し示したのは、公園だった。

僕はそこで、自分が話そうと思ってもみなかったことばが、口から衝動的に出てきてしまった。

「木曜日に….」

「え?」

「木曜日の夜、駅で男の人と一緒にいたよね。」

赤井さんは僕の言った質問の内容がうまく飲み込めず、戸惑っている表情を見せる。

「もう僕につきあってくれなくていいから。今日はありがとう。」
「用事を思い出したからここで帰るね。ごめん。」

そう、言いながら、僕はその場を振り返らず、まっすぐ足早にその場を後にした。

遠くで赤井さんが何かを必死に叫んでいたけどよく聞こえなかった。


僕は長く伸びた自分の影をみて


光に近づきすぎると

闇が深くなることを


あらためて
自分の身をもって
ひしひしと嫌というほどに
細くのびた影とともに感じながら
重たい足を振り出す事だけに気持ちを集中していた。


足を踏み出すごとに僕はまたゆっくりとゆっくりと透明人間に近づく


それはコツコツという足音とともに
確実に僕の存在を蝕んでいく
何かであったのだ。


つづく。


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