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春を待つ修羅とシュークリーム

【シュークリーム】

どれくらい寝ていたのだろう。
窓からさす光は、鈍角である角度からして、夕刻や朝方であると思うが、意識がはっきりしない頭では、どちらか判別し難い。

けれども、そんなことはどうでもいい。

飲みかけのコーヒーがマグカップに入っている。マグカップを手に取り、ゆらゆら揺らしながらコーヒーをシンクに乱暴に捨てて、そのままカタンと置いた。
固いものを踏まないように、そろそろと足を運ぶ。脱ぎ捨てたマフラー。いつ肩にかけたのかも忘れてしまったブランドのショルダーバッグ。袋が空いた乾燥しきったスナック菓子。読みかけの歴史小説。水道会社の請求書。同窓会開催の手紙。

机の上のペンと原稿用紙を眺めた。椅子をひいて腰掛ける。

薄い氷の上を歩いている。

少しでも重みを持つとおそらく氷はぱりんと割れてしまう。
「そっちは危ないから」
母親が笑顔で、けれどもやや切迫した気持ちを含みながら幼い私に話しかけた。私はその声にびくっとして、急いで母親の元へ走り寄った。手を繋いで歩く。
手編みの手袋越しに垣根に積もった雪をぎゅっとおもむろにつかんだ。ふわふわとした雪は固くなり縮こまった。そしてぱっと手のひらを離した体積の小さくなった雪の塊を眺めて、私たちは笑いあうのだ。
「今日は寒いから七海ななみの好きなシチューにしようか」
吐息が白く、頬は赤い。

電話が昨日かかってきた。
親戚から母親の状況について尋ねられた。私は定型文のような文章を毎回繰り返す。

『認知症はあいかわらずです』

『施設では特に問題なく過ごしているようです』

『この前インフルエンザの予防接種をしたそうです』

風の噂で聞こえてくる「私たち」への噂は、望んでいない積雪のように、薄い氷の上に少しずつ積み重なっていく。

『親の年金頼みの生活』
『離婚して出戻りのあわれな女』
『定職につかずに物書きを目指す親不孝もの』

隠そうとしていてもこういうことは、伝わってくる。電話の向こう側から漂うどす黒いもやもやとした霧のような悪意は、いくらきれいなことばで包まれていても奥底からあふれ出ているのだ。

母の施設入居費は月16万。


「年金でまかなえる額だと思ってんのか」

「ばーか!!」


ぐしゃぐしゃっと紙を丸めた。

書きかけの原稿用紙を次々と手に取り、私は一つ一つを力をこめて丸め、ポンと床に投げた。

そのうち原稿用紙がなくなると、今度は、本のページをちぎって丸めては投げ、請求書、同窓会の封筒も丸めて床に放った。


紙という紙は全て丸まって、床に散らばっている。


私は疲れ果てて、床に寝転んだ。

横を見る。

床に転がっているたくさんの紙切れであった物体たちが、ふと、シュークリームに見えた。


床の上のシュークリーム。


シュークリーム食べたい、かも。


口に丸まった紙を一つ入れて二回ほど噛んだのちに吐き出した。


くすくすと笑いながら、時刻を確認する。


あぁ、春になったら死のう



私は着替えて、荷物を確認しながら、深夜帯のバイトに出るために家を出る。
バイト先のコンビニまで徒歩20分。



雪は止んでいたが、空は薄暗い。
アパートの自販機であたたか〜いスイッチを押し、おしるこ缶を買って上着のポケットに入れた。かじかんだ手をつっこみ温もりを求める。
踏切を渡って、近くの工場の社宅を通り過ぎて原っぱにたどり着いた。

勤務時間まで少しあるので、ベンチに腰掛ける。


足元には足跡が残されていたが、形は消えかけていた。おそらくこしまり雪の上に新雪が降ったのだろう。
人は一人もいない。ここまで歩いてくる間、誰一人としてすれ違わなかった。


この町には生きた人たちがいない。透明な幽霊が住んでいて、幽霊たちは、せわしくちらちらと光ったり消えたりしながら、青く灯る。

いつか学生の頃に読んだ本に、そのような話が出てきたことを思い浮かべながら、ふと原っぱの先を眺めると、リードがついた柴犬と若い女の子がくるくるとかけまわっていた。

あおいちゃん?」

蒼は近所に住んでいるお屋敷の娘さんだった。

彼女の陶器のような肌と、真白なダウンジャンパーは、白い積雪の世界と同化しそうだ。

無邪気ないのちが二つ。

ジャンプしたり、かがんだり、カーブしたり、犬と彼女は走り続けた。静まり返った音のない世界の片隅で。
もしかしてたった今。世界は彼女と犬と幽霊しかいないのかもしれない。

私はその景色を眺めているうちに、私の奥底の固くなって縮こまった雪の塊が、徐々に溶けはじめていくような気持ちになった。その後にふわふわとやわらかくなるような感覚に出会った。薄汚れた踏み荒らされた固い雪は、新雪のような心象風景を描き、気づいたら私は彼女に近づき、先ほどのおしるこ缶を手渡していた。


【修羅】

冷蔵庫にあるフルーツを、無心で食べる。
うちの冷蔵庫は大きい。いつの日か、この冷蔵庫はオーダーメイドで冷凍庫をたくさん備えていることを誇らしげに母親がママ友に自慢していた。

りんご。
洋梨。
メロン。
ぶどう。

すべて食べずにひとかじりしてから、次にうつる。こんなことをしたら、また母親に怒られてしまう。今夜は父親の会社関係のお偉いさんが訪れる。
夕食後に振る舞うはずの準備してあった果物たちがこのような惨事になっていることを知ったら、母親に大変な怒りを買うことは、蒼は百も承知だった。

血の味がする。

甘みと塩気。

唇から流れでる赤い血液。


私が見ている世界と、母親、父親、義兄の見ている世界は、たぶん北極と亜熱帯くらい違う。
いや、もっと。
海底都市と、銀河鉄道くらい違うと思う。

昨年プラネタリウムで見た星々は、肉眼で見るとお互いの距離はわずか3cmであるが、その間には何光年の距離と時間が横たわっている。

近いようで遠い世界。


重ねた唇を思い切り噛んでやった。

勢いよく私から離れた義兄の唇から血がしたたり、それに気づいた兄は般若のような顔をして、すぐに私の顔を平手打ちにした。

私は腹に蹴りを入れ、義兄の隙をついて、無我夢中で自室から逃げた。

舌に残るおぞましい感触。

口の中で私と義兄の血が混じり合う。

台無しにしてやる。
誰もが羨む豪邸に住まう模範的で幸せな家族。
そんなものは幻想だ。
私のしあわせをさしこむ隙間もない、仮面をつけた関係に、とどめをさしたい。


私は修羅になる。

青を打ち消すような真っ赤な修羅に

春にはなれるかもしれない。


私は家を飼い犬と共に飛び出した。

そこから先の記憶がない。

気づいたら私は原っぱで倒れていた。
ふと、白い雪を赤で染めようと思って、唇をぬぐったが、すでに出血は止まって乾いていた。

このまま雪に溶けてしまえたら。

目の前に女性が現れた。
近所に住んでいる七海さんだった。
彼女は「どうしたの?」と尋ねて、あたたかいおしるこの缶を渡してくれた。

私は「おしるこは好きじゃない」とくくくくと笑いながら彼女につき返した。

七海さんはにっこり笑って


「ねえ、じゃあ、シュークリーム食べに行かない?」

「とは言っても、あなたが普段口にしないようなコンビニのやすーいやつだけど」

と私に手を差し伸べた。


私は彼女の手を取り「うん」とうなづき、立ち上がった。

七海さんの手はあたたかく、私の冷たい手の指の隙間に入り込み、いつまでも包んで離さなかった。

そして新しい足跡を残しながら、灯りの方へと向かって行った。




私たちにまだ、雪解けは訪れない。








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くま
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