【創作】Dance 9
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第9話 待ち時間〜ふたりのdance〜
朝早く祖母に手を引かれて小道を行く。
朝の子供番組のエンディングソングが流れる時間。2人はどちらともなく家を出発する準備を始める。祖母がリモコンでテレビの電源を消す。祖母が持ってきた黄色の帽子と鞄を身につけて、オレンジ色の靴を履く。
畳屋さんのイグサの青々とした自然のにおい、魚屋さんの血なまぐさいお魚のにおい、自転車屋さんの油のにおいを横切りながら歩道橋を渡る。祖母は結月の歩くペースに合わせて歩幅を調節してくれている。結月が少し疲れた頃に、曲がり角を右に曲がると、そこは結月が通っていた幼稚園がある。
結月は今度の冬の生活発表会で、おやゆび姫のお姫様の役に抜擢された。
両親や祖母は結月の主役級の配役を大変喜んでいた。
しかし、結月は少し憂鬱であった。
なぜなら、王子様役のシュンくんがずっと幼稚園を休んでいたからだ。
お姫様と王子様の担当パートはシュンくんが不在であったので、結月は1人で練習をこなさなければならなかった。
見かねた先生が王子様のセリフは代役として読んでくれた。結月もようやくセリフの練習は行えたが、問題はダンスだ。
2人で行うお祝いのダンスはいつもひとりぼっちだ。
「王子様がいないのに、私はどうしたらいいんだろう」
手を伸ばしてつかんではくれない
ステップを踏んでも相手との距離感もわからない
誰もいない空間に
結月は途方にくれてしまった。
「シュンくんは病気になって入院してしまったらしい」と聞いたのは発表会後の話で、先生はシュンくんの代理としてハヤトくんを王子様に選び、おやゆび姫は滞りなく発表の日を迎えた。
しかし、結月はこの発表会で、ひっかかるような気持ちを抱いたままであった。
のちに彼女はあるバレエの発表会でこのエピソードを否応なく思い出すことになる。
数年後、彼女は中学生となり、彼女の通っているバレエ教室が開催する発表会のリハーサルに参加していた。
「その時はよくわからなかった」
リハーサルは教室の先生が主体となって、踊る位置や出てくるタイミングなどを細かく細かく煮詰めていく。普段の教室と舞台では広さが格段に違うため、生徒たちは普段とは違った広さに戸惑いながらも練習の成果を振り絞って必死に指導についていく。他にも照明や音声の調節、幕間のタイミング、背景や舞台の転換なども併せて行う。余韻にひたっていると、すぐさま時間が押してしまうので、それぞれの技術を淡々とこなすことに集中している。舞台の横に掲げられている大きな丸い時計は、控えめにカチカチと音を立てながら、残酷にも刻をすすめてしまう。気づけばこんな時間だ….時間との追いかけっこに徐々に生徒たちも疲れが見えてきたその時だ。
客席の間を舞台裏へ移動していた結月は
ある演目の練習がはじまった途端に動けなくなってしまった。
目を奪われる。
照明は暗い。
闇の中に女性がいる。
彼女はお姉さん先生の1人。
黒木雪乃先生。
やわらかな光がさしこまれ、その先には一脚の椅子が置いてある。
シンプルな白いシャツと黒のロングスカートに身をつつんだ彼女は、うずくまっている。
小さく小さく卵のように丸くなった彼女はゆらゆらとゆっくり小さく揺れる。
そしてごろりと横たえて、しばらく経つと、ゆっくりと立ち上がった。指は虚空をつかまえるかのように、しなやかに猫のように伸びた。
光を指す。
飛んで
ステップを踏む。
つま先をゆっくりと地面につける。
身体は捻転し、戻り、そして縮んで、広がる。
時折椅子にもたれかかる。
また腕を伸ばしていく。
スカートが静かにはためいて、元の位置へおさまる。
結月は次の演目の準備をしなければならなかったのだが、この彼女の不思議なダンスから逃れられなかった。
まるで何かと戦っているような
怒りと悲哀に満ちたような
しかし誰かを愛おしんでいるような
まるで自分を傷つけているような…
誰かがいる
途中から結月は気づいた。
視線の先
指先のむこう
身体の皮一枚隔てて
何かと踊っている。
彼女は一人ではなかった。
彼女は確かに「誰か」と踊っていた。
そしてそれは
とてもとても彼女にとっては
大切な何かであることが
この「dance」が示していた。
彼女はうつわのように
様々なものを憑依させ
そして今ここにはいない
けれども確実にここにあらわれた何かと
踊り続けて、反応して
必死に呼応していたのだ。
※※※
結月たちは遅めの昼食を屋外のテラス席で取っていた。
店内で購入したカレーのじゃがいもをほおばっていた星一が
「彼女は….何と踊っていたんだろうね」
と結月に問いかけた。
結月は紙コップに入ったアップルジュースを丁寧にコクンと飲みほしてから、一息ついて、返事をした。
「あとからね….聞いたの。教室の先生にね….もうコンサートが終わってから3ヶ月くらい経ってからかな。レッスンが終わったあとにその話をした」
「『雪乃先生のダンスがね、私は忘れられないんです』って言ったら、『あのね結月ちゃん』って、先生は壁に飾られていたコンサートの雪乃先生の写真を見ながら教えてくれた」
雪乃にはずっとパートナーがいたんだよ。
それはバレエのパートナーでもあったのだけども、人生のパートナーでもあった。
彼はとても穏やかな人でね。
雪乃は繊細な部分があるから….そういうものをずっと支えてきたんだけど、ある日、彼は事故にあってこの世にかえらぬ人となった。
しばらく雪乃は踊れなかった。
でも、しばらくして….また彼女は踊りだすようになった。
そして今のあのdanceになった。
見ていてわかったでしょ。
彼女はひとりだけどひとりぼっちではない。
彼女は余白を作って場所をしつらえて
目には見えない彼と踊っている。
『いなくなってからの方が存在感が強いんですよ』
雪乃はバレエシューズのひもを結びながらこともなげにつぶやいた。
水滴が髪の毛に沿ってつるりと下降し
汗が鎖骨に落ちた。
「きらめいた水滴を見て私は思ったの」
彼女は繊細だが決して弱い人ではなかった。
彼女なりに導き出した答えはこのdanceに込められている。
生命力にあふれた
悲哀と幸福をおびたダンサーとして
踊りながら彼と対話し続けているのだと。
「私は、それからコンテンポラリーダンスに興味を持ちはじめて、学ぶようになった」
「公園で練習している時はね、私だけではなくて...一人じゃないの」
「何かを想って…私は何かをそこに呼び寄せたくて…そんな気持ちでやっているから。だからこそ、誰にも見られない場所である必要があった」
星一は結月の話を聞いてことばをとっさに紡ごうとしたが、うまく形づくることができなかった。そして、それを遮るように結月は
「いいんだよ」
と星一を見つめていた。
「いいの。私はね、星一君にあそこで会えて良かったの」
「だからね、気にしなくていいんだよ~」
と言いながら、机の上のグリーンのトレイを持ってさっと機敏に立ち上がった。
そしてにっと笑顔を見せて、店内の返却口へと向かっていった。
星一は宙に放とうとしていたことばらしきものを、しばらく見つめてそして時間をかけて飲み込んだ。
潤は二人を交互に見つめながら
「さぁさぁまだまだ時間は残ってるんや。ほらさっさといこか。」と軽快な調子で立ち上がり
3人は人混みの流れへと入り込んでいった。
「いなくてもいる」
星一はずっと考えていた。
薔薇と青空と
なだらかな丘で彼女を見つけた時に
彼女は何を呼び出そうとしていたのだろうか
それはきっと今もこの先もわからないことで
むしろわからなくていい
たぶん、わからないほうがいいのだと
カメラのレンズをぎゅっと握りしめた。
10話へつづく。
挿し絵協力:ぷん(pun)さん