丸子の自然な暮らしから生まれるバラモン凧
大瀬崎灯台展望台で見えた青空は、その特異な幾何学的形態だけではなく、直前のお天気や、2,3日前には島に入ることすら危ぶまれた台風18号の状況、更にはフランス-長崎-五島と続いたルルドシンクロにまで視野を広げた時により深い意味を持つ。出来事をその場面ごと切り取っていては見えてこない文脈の中にこそ、意味は生じて来るのだ。
福江島に到着してまだ3時間余りしか経っていないと言うのに、既に数日滞在したかのような気分になっているのは、体験の一つ一つが濃密だからであろう。真の時間は心と密接に関わっており、ある意味心そのものとも言えるのだが、時計が示す時間では、今日はまだ10/2(KIN87)の昼過ぎなのだ。
しばらく坂道を下り、また登ったり下ったりをした先に到着したのは白鳥神社。ランチ後、海沿いの道から対岸に見えていた鳥居は、この神社のものだったようだ。698年に文武天皇が日本武尊を守護神として祀ったとされる神社で、遣唐使として旅立つ最澄が参詣したとも伝えられている。海から階段を真っ直ぐ登ったところに本殿があり、参拝後に振り返ると鳥居の先に海が見える。
しばらく玉之浦湾沿いの道を走った後は内陸部に入り、福江島の中央を縦断するような形で北の魚津ケ崎公園を目指してひた走る。福江島は想像していたよりもずっと大きな島で、平野部ではたわわに実った黄金の稲穂が方々で見られた。40〜50分走って到着した西海国立公園の魚津ケ崎は、遣唐使船寄泊地として十七次遣唐使船の空海や最澄も立ち寄ったとされる場所。
案内板には「遺唐使船は難波津(大阪)を出て、瀬戸内海をわたり、筑紫の大津(博多)・唐津・平戸と泊りを重ね、最後に五島に来て風待をした。」と書かれている。台風の影響が感じられる強風と岩場に打ち砕ける波を眺めながら、ここから外洋に出て唐に向かうのは誰にとっても覚悟のいることだったであろうと、1200年以上前にこの地を経由して行った先人たちのことを想った。
国道384号を南下し、ショッピングモールで夜の宴のための食料やお酒を見繕う。後で福江島を巡るこの国道の384という数が、1年365日と、今年の「13の月の暦」元旦(1年全体も意味する)KIN19の合計であると気づく(384=365+19)。結局、島を時計回りに一周するような形で、午前中に一度通過した富江町の丸子集落に到着。
絵美さんが、子供の頃にひいお祖父さんひいお祖母さんんと暮らし、数年前に帰って来たという家は、どこか懐かしい感じのする木造家屋で、よく見ると柱にも鴨にも実に立派な木材が用いられている。玄関を入るとすぐ、絵美さんが制作された鮮やかなバラモン凧が出迎えてくれた。
勇敢な精神を表現する独特なデザインと色彩のバラモン凧は、想像していたよりもずっと大きく、風でうなり音を出すための弓状の部分も入れれば、縦横1.5mくらいはありそうだ。それより少し小型のものや、お守りや魔除け的な意味合いで慶事に贈られる賞状サイズのものなども見せて下さりながら、五島でも地域ごとに微妙にデザインが違ったりする背景を、絵美さんが解説して下さった。
ひと息ついてから、歩いて数分のところにある近藤さんのお宅へ皆で移動。武内先生が親しみを込めてオジイと呼んでいたのは、この近藤さん(実は武内先生と同い年)のことであった。太陰暦に従って新月に神社で祝詞を唱え、自給自足の生活をされているからか、健康的で若々しい。
近藤さんに勧められて武内先生が薪で炊いたお風呂を浴びられている間に、買い出しでゲットした刺身やつまみをテーブルに並べて宴の準備を皆で進める。そこに奥さんが準備して下さっていた天ぷらや煮物も次々と加わって、テーブルは五島の豊かな食材で一杯になった。
親戚の家にでも来たかのようなくつろいだ気分にさせられるのは、絵美さんや武内先生との信頼関係があるからだけではなく、近藤さんご夫妻が、この丸子という集落を訪れる人を歓迎する気持ちを普段から持ち続けているからなのだと、お二人からのお話を伺っていて思った。
お酒も入って気分も乗って来たところで、近藤さんがkazさんを呼び寄せて、祝詞や神楽の資料を見せて色々と説明をし始めた。絵美さんによると相当珍しいことらしいが、各地で祈りを捧げて来たkazさんに何か感ずるところがあったようで、近藤さんは身振りを入れたり時には歌ったりしながら、嬉しそうに話をしている。
この集落の人口そのものが少ないこともあって、ご神事を受け継ぐ若い世代の男性は久しくおらず、雨の日も風の日も嵐の日も、長きに渡ってお一人で新月の祝詞を上げ続けて来られたという。例大祭の時などは、別な集落に住む神主さんが来られるとのことだが、日常の神事は村の長のような立場にある近藤さんが一手に引き受けて来たのだ。
絵美さんも関心を持つようになって、何か手伝いたいと申し出たことがあったらしいが、ご祭神の保食神(ウケモチノカミ)は女神で、神事に女性が関わるのはタブーになっているとのことで断念したという。バラモン凧の伝統を受け継ぐ時にも似たような話があったようだが、伝統が途絶えないようにする事と、出来るだけ形を変えずに残す事とのバランスの取り方が、今の時代はより難しくなって来ているように思う。
宴はまだ盛り上がっていたが、私は新月に合わせて行っているオンライン瞑想クラスの準備で、ひと足先に絵美さん邸に戻らせて頂くことにした。街灯が無い道は真っ暗で、すぐ近くに移動するだけなのに方向感覚まで失いそうになる。無事、ネットにも接続して、いつも通りの感じでクラスを進めることができたが、終盤に皆も戻って来たので、最後に絵美さんに登場してもらってバラモン凧について少しだけ解説をして頂いた。この日のクラスに参加したメンバーはラッキーであった。
集落の中心部にある保尾神社で、近藤さんが新月の祝詞を上げられるのは明朝6時。充実し過ぎの長い1日だったので、布団を敷いて横になると、あっという間に眠りに落ちて行った。
翌朝、まだ薄暗い6時前に神社に向かうと、既に明かりが灯っていて、白装束に烏帽子姿の近藤さんが祝詞を上げられる所だった。太鼓を叩きながらいくつかの祝詞を奏上されて10分ほどで終了。祝詞の開始とともに柱にヤモリが現れたり、すぐ隣の座布団下にサツマゴキブリ(と後に判明)が入り込んで来たのにはちょっとビックリしたが、皆、そのまま大人しくしていたので、きっと祝詞を聞きに来たのだろう。
その後、kazさんに太鼓の指導をし、kazさんがある程度コツを掴んだところで、近藤さんがその太鼓に合わせてお神楽を舞って下さった。例大祭が近付いているので、その練習という意味合いもあったようだが、保管されているお面や獅子まで嬉しそうに見せて下さったのは、近藤さんが大切にされて来た祈りや伝統に対して、ここに集っているメンバーが心からの敬意を抱いているのを直観されたからかもしれない。
保尾神社は、前日訪れた白鳥神社と同じように海からほぼ一直線のところに社殿がある(海岸からの斜面はなだらかだが)。お祭りの時には、普段、厳重に保管されている御神体(神主だけが目にする)をお神輿に移して海に出で、再び戻ってくるのだとか。その昔、女神である保食神がこの海岸に流れ着いてお祭りするようになったという話なので、その様子を再現しているのかもしれない。
ひとしきり、色々見せて頂いた後、皆で歩いてすぐの近藤さん宅に移動し、昨夜に続いてまた奥さんお手製の朝食をいただくことになった。ヨーグルトにかけられているハチミツは、ご自分で養蜂されている日本ミツバチの蜜だとのこと。沖合の島から海の水を汲んできて作っているという塩も絶品で、全くトンガった味がせず、ミネラルのバランスなのかほんのり甘い感じすらする。
昨夜いただいた魚と野菜の天ぷらも自給自足の賜物で、他に炭焼きなどもされるというのだから何とも豊かな暮らしぶりだ。実際に、自分がやるとなるとそんなに簡単なことで無いのは容易に想像がつくが、自然の恵みの中で生きるというのは、本来こういうことなのだろう。そして、こういう暮らしぶりが土台にあってこそ、バラモン凧のような伝統文化も生まれて来たのではないだろうか。
昨今流行のエコビレッジも悪くはないが、ここ丸子の集落では、自然と調和する暮らしが、ごく当たり前のようにずっと続けられて来たのだ。武内先生が「気持ちいい村!」と絶賛されていた理由が、近藤さんご夫妻の暮らしぶりをお聞きすることで分かった気がした。改めて作り出されたものではなく、自然とそうなって来たものなのだ。
かといって文明の利器を否定している訳でもないので、朝食をいただいているその部屋では、テレビでニュースも流れていた。驚いたのは、ちょうど9月に就任したばかりの出口太五島市長が画面に映し出されたことだった。現役市長の名前など、自分の出身地についても知らない位なのに、私はこの新任の五島市長のことは知っていたからだ。
何年も前から注目している安全保障の専門家で、作家でもある青山繁晴参議院議員の公設政策秘書を、ごく最近まで出口さんがされていたからである。青山さんの最新作『反回想 わたしの接したもうひとりの安倍総理』にも記されている通り、安倍総理が暗殺された日、同じANA17便で青山さんも出口さんも関西に移動されていて、青山さんはその飛行機の扉が開く直前まで安倍総理と話をされていたし、総理が凶弾に倒れた報を最初に青山さんに伝えたのも出口さんだったのだ。
9月の初旬には『反回想』も手元に届いていたので、私はこのタイミングに五島を訪れることになった背景の一つは、出口市長の就任と無関係ではないと、個人的には思っていたところがある。以下、「13の月の暦」をある程度知っている方向けの話になるが、自分のためにもメモしておきたいと思う。
出口太五島市長は、1975年1月24日生まれのKIN151(8・猿)で、「13の月の暦」提唱者の一人ホゼ・アグエイアス博士(1939年1月24日生まれ)のぴったり36年後に誕生している。2024年11月現在の「運命の道筋」はKIN96(5・戦士)。
96(=8×12)は不可視の聖地シャンバラのエリアの数であることが、チベットのカーラチャクラ・タントラ(時の輪の教え)には記されていて、私たちの活動名クリカはそのシャンバラの法王に由来する。そして、そのシャンバラ伝説と深い関係があるアルタイを、miccoさんは7月に訪れているのである。
また、KIN96は私の母方祖父の誕生キンでもあり、ホゼの母エセルと同じKIN241(7・竜)が誕生キンの私の現在の道筋はKIN36(10・戦士)で、36はまさにホゼと出口さんの年齢差に等しい。
一方、青山繁晴参議院委員は1952年7月25日生まれのKIN258(11・鏡)で、「13の月の暦」での「時間をはずした日」に当たり、KIN258は私の母方祖母の誕生キンである(道筋はKIN18で台風18号とシンクロ)。そして、出口市長が近藤さん宅でテレビ画面に映し出された10/3はKIN88(10・星)で、実は私の父の誕生キン当日でもあった。
つまり、私は父の誕生キンに、母方祖父の誕生キン状態にある出口市長をテレビで目にし、その出口さんが公設秘書を務めていた青山議員は母方祖母と同じ誕生キンで、私はその頃、その青山さんの『反回想』を読み進めている最中だったということになる。絵美さんは曽祖父母と暮らした家に戻ってバラモン凧を制作されているが、私は「13の月の暦」で見出せる時空回路を通じて、父や祖父母とのつながりを意識するプロセスを、この丸子集落で味わうことになったのだ。
そもそもこの五島行きは私が計画したものではなく、武内先生が新月の祝詞に合わせてmiccoさん&kazさんらと訪れる計画を練っていたところにシンクロして乗った話であるが、そのタイミングは「13の月の暦」で見ると、上記の通り五島の新市長の就任と切ってもきれない関係にあった事が分かる。
台風が来ていても、結局、飛行機が飛び、船も運行されて無事島に入れることになるのは、こういう条件が何重にも揃っているからなのだと私は思っている。これまでの旅を振り返ってみても、それは一貫しているのだ。その旅が私の個人的な願望や都合だけで生まれたものだとしたら、こうはならないのである。内からの直観が宇宙のリズムに沿ったものであれば、それは宇宙的な行為として実現するのである。(D)
追記:この記事に取り掛かり始めていた11/2、法政大学の学術サークル「志雄会」が主宰する講演会で青山さんが講演をされた折、たまたま近くで五島市出身者で東京に居る人の会があり、市長に同行している課長が青山さんのファンという縁があって、その講演に出口さんも顔を出されたことが、青山さんのブログで紹介されていた。
自己存在の月20日 5・風(KIN122)
🌟12/14(土)神楽坂「ツォルキンとサイ時間単位の5:7」
🌟12/21(土)横浜「 13の月の暦レクチャー冬至スペシャル」
🌟時のからだ塾 新塾生若干名募集中