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父と過ごした最期の日 - "書く"という喪の作業 -

こんにちは。
クララです🧚

この夏は、
大好きな父との
哀しい別れがありました。


父の声が
聴けなくなってから
あっという間に季節が進み、
秋になり。

今でもまだ、
父と過ごした最後の1日が。 
神葬祭が終わるまでの4日間が。


まるで
夢だったような。

夢であって欲しいような。

父の不在に対して、
半信半疑な自分がいます。
今だに。


でも、
「じいじだよ〜」
という第一声から始まる
父からの電話は、
もうかかってこないし。

"じじい"の件名から始まる、
遊びごころいっぱいな
長文のメールは届かなくて。

ふとした時に、
涙がこぼれます。

父の声が聴けなくて。

ケド。

前よりもずっと
そばにいるような。

不思議な感じです。



ただ一つ言えるのは、
父の"死"に対して
"悔い"というモノを
一切感じていないということです。

もっと、ああしていれば…
もっと、こうしていれば…

わたし自身も
全く思わないし、
きっと、
父もそうなんだろうな…
と思っています。

わたしの大好きな父は、
最期の瞬間まで、
全力で生ききったヒトでした。
本当に。


だけど、
急いで実家に駆けつけて
認知症の祖母を見守り、
布団を用意してくれてた姉は。

深夜に病院まで
駆けつけてくれて。
でも、
死に際に
間に合わなかった兄は。

どんなに
父の死が信じられなくて、
どんなに
哀しかったことでしょう。


父のことが、
大好きだった私たち。

私たちのことが、
大好きだった父。

最後の時間を
そばで過ごさせてもらった
わたしと母。

あの壮絶で濃密な、
父の最期の時間。

潔いとしか言いようのない、
父の死に様。

父が亡くなって50日。


なんとか言葉を拾って、
書き残しておくことにしました。

父と過ごした
最期の日のことを。


【2024年8月16日(金)】

朝から母と一緒に、
父は県立病院へ。

朝から様々な検査を受けて、
帰宅したのは昼を
とっくに過ぎた時間でした。

7月に喀血してICUに
入院していた頃のことを思うと、
信じられない回復ぶり。

かかりつけの先生にも会い、
「このご恩は必ず返しますから」と
話してきたのだと
意気揚々と話していて。

それこそ、
ICUにいた時の
父の姿が夢のようでした。

喘息の根治治療となる
注射を2本打ち、
9月の手術も視野に入れて。

紫色だった唇は赤くなり、
肌艶も喀血以前より
良くなっている程で。

声も軽やかでチカラがあり。

今までに
見たことがないくらいの食欲で。

夕食には母お手製の
美味しいカレーライスを
一緒に食べました。

昼食には、
母と2人で病院の食堂で定食を食べて。
完食したのだと嬉しそうで。

「完食出来たのなんて、いつぶりだろう」
と言ってるほどだったのです。

こんなことを母に言っていました。
「病院に連れて行ってくれて、
ありがとね〜」

こんな風に
長年連れ添ったパートナーへ
まっすぐ感謝を伝えられる
父と母の関係性が素敵だなぁと思ったので、
よく覚えています。

夕食を食べた後には、
「美味しかった〜〜」と満足気で。

わたしと父と母と、
3人でおしゃべりして。

ちょうど職場である
大学が夏休みだったので、
父が喀血して
ICUに入院していたことについて。

「誰も気づいてないんだよ。
でも、ソレで良かったんだ。」

そう 話していました。

今この言葉を振り返ると、
父にも思う所が
あったのかもしれません。

ただただ
父はずっとご機嫌で。

「クララの声を堪能した〜」
と、お風呂に入り。

「今日の夜は眠れるかな〜」
と、不安をこぼし。

21時になろうかという頃。

父の部屋から、
トットットットッと
父の軽い足音がして。

てっきり
「眠れないよ〜」と
起きてきたのかと思って。

まっすぐに母のもとへと行った父は。

既に息が苦しそうでした。

「また喀血しそうだ。」

父はとても冷静で。

反対に、
わたしと母は気が動転していて。

母から7月に喀血した時のことを
聴いていたわたしは、
喀血用にジップロックを探し。

母はかかりつけの医師に電話して。

父は荒い呼吸の中、
自分の部屋へ戻ると
おもむろに外出するための
着替えを始めました。

苦しい中、
懸命に深く呼吸をして。

わたしが広げるジップロックに、
着替えの合間に血を吐き。

愛用の腕時計をはめて。

鴨居に腕を伸ばし、
立ったままで深く呼吸して。

「今回は危ないな」

落ちついてそう溢す父の鼻からは、
一筋の鼻血が出ていました。

救急車を待ってる時間はない。
県立病院まで行くのは、
無理だ。
かかりつけの医師のもとへ。

この時点で、父はもう1人で
玄関から階段へ降りることは出来なくて。

わたしが肩に父の腕をかけて、
父を全身で支えながら
母の待つ車に乗り込みました。

TVも電気もすべて
つけっぱなし。
わたしはお風呂上がりの
パジャマ姿で
髪も乾かさずスマホも持たず、
玄関の扉を閉める余裕さえ
ありませんでした。

母は動転しながら
運転していて。

そんな母に父は、
「慌てなさんな」と
落ち着いた声をかけて。

わたしが腕に抱えた
父の身体はあたたかく。

苦しい呼吸の合間に、
父が細い声で言うのです。

「苦しい」と。

うまれて初めて聴く、
父の弱い声でした。

わたしは、
「苦しいね。苦しいね。」
「もうすぐ着くからね。
お父さん。がんばって」

そう言いながら、
背中をさすってあげることしか
できなくて。

病院までの道のりが、
途轍もなく遠く。

赤信号の待ち時間が、
気が遠くなるほど遅く感じて。

本当に怖かった。
すべてが。


でも、
この時はまだ夢にも
思っていなかったのです。

父のあたたかさを
感じるのは、
コレが最期だと。

7月に喀血した時も
大丈夫だったのだから。
きっと、
今回も大丈夫だと。

きっと。


かかりつけの病院に着いた時、
父はもう1人では歩けなくて。

わたしが1人で父を抱えて
処置室まで連れて行き、
診察台へ寝かせて。

現場には
かかりつけ医の先生と、
看護師さんが2人。

時間は21時を過ぎていました。

そこからは
TV画面の中でしか
見たことのない、
一分一秒を争う
救急医療の現場。

次々と先生の
指示と怒号が飛び。
必死に喰らいつく看護師さん。

救急患者に慣れていなさそうな
看護師さんの一人は、
素人目にもわかるほど
動転してて。

血中酸素濃度の変化に関して、
先生の問いかけに
母が答えている状態でした。

もうその時には、
酸素濃度は67%ほどで
見てる間に低下していき。

わたしは
目の前の父の状態が
本当に信じられなくて。

「おとうさん。おとうさん」
「がんばってよ。おとうさん」

怖くて怖くて、
父から離れることができなくて。

まだあたたかい父の腕を
さすっていることしかできず。
何度も。何度も。

喀血する中での
挿管は困難を極め。

父が、
見ていられないくらい
本当に苦しそうで。

吸引しては大量の血が。

手動吸入器での
必死の酸素供給。

壮絶な現場でした。

先生も。
看護師さんも。
わたしも。
母も。

汗だくで。
父の血がいたる所に
飛び散っていて。

先生の白い髪が、
赤く染まり。

父の足の爪が白くなり。

父の目にチカラがなくなり。

ほんのついさっきまで、
あたたかかったのに。

血を吸引しては
先生と看護師さんが汗だくで
手動による酸素を送り続け。

少し酸素濃度が上がるたびに、
期待して喜んで。

また、下がる。

永遠のように長い時間。

何度か
そんな時間を繰り返して。


酸素濃度が出ない。
心拍も。


ずっと、
気丈にしていた母が。

「おとうさん、がんばったよね」
と泣きながら抱きついてきて。
ただ、
泣くことしかできなくて。

そんな状況でも、
先生は諦めなくて。

みんなで力を合わせて
もう意識がない父を
自動心臓マッサージ器に乗せて。
心臓マッサージが始まり。

少し反応が出ては、
なくなり。


この時に、もういい。
と思って。

もう、
父はがんばったから。

もう、
父の身体が
容れ物になったのが
わかったから。

もう、
いいと思ったの。

わたしも母も
汗だくで放心状態で。

駆けつけて下さった
3人目の看護師さんが
処置室に入ってきて。

その看護師さんの肩に、
黒っぽいような
茶色いような。

見たこともない
綺麗な蝶々が。

羽を開いたり。
閉じたり。

部屋の中を
ひらひらと舞っては、
またとまり。

この緊迫した空間に、
夢のように
驚くほどの軽やかさで。

ああ、おとうさんだ

直感的にそう思った。


現世での自分の姿を。

母とわたしを見守るように。

まるで、
わたしと母に
"心配ないよ"と
言ってるみたいに。

ひらひらと


母が、
「人の命って儚いね」と泣き。

先生が、
「ご臨終です」と告げる。


あまりにも
現実離れしていて。


だって、
ほんの数時間前まで

一緒にごはん食べて。
お話しして笑ってて。

あたたかかったんだもの。

到底信じられない。


でも、
その一方で
ほっとしてる自分もいて。

ああ、
これで
お父さんは、
ゆっくり呼吸ができるな。

そう思ったの。

あまりに呼吸が
しんどそうだったから。

おとうさん、
楽になったんだな。
自由になれたんだな。

そう思った。


気づいたら、
綺麗な蝶々はどこにも
いなくなっていて。

残されたのは
あまりにも美しい父と。

血と汗と涙にまみれた
放心状態のわたしと母でした。


喀血してから、
わずか2時間。

あまりにも潔く。
あまりにも高潔な。

これが、
父と過ごした最期の時間です。


ただ、
思うのは
父が苦しい時間が、
短くてよかったということ。

幼い頃から
喘息と共に生き。

身体は弱くても、
誰よりも強かった父。

家族には甘々で。
孫たちにはもっと甘々で。

いつだって
飄々として優しく、
朗らかに笑っていた父。

父が亡くなってから50日。
たくさんの方に
父が愛されていたことを、
肌で感じています。

父の存在はあまりに大きく。

父の優しさが、
父の強さが、
父の愛が、
あまりにも大きくて。

その声が聴きたくて。

ふと、
涙がこぼれることもある。

それでも、
生きていかなければ。


父に逢えるその日まで…




長い長い
クララの独白におつき合い頂き、
本当にありがとうございました。

ヒトは、
どうして"物語る"のか。


書くコト話すコトが
癒しであり。


あの時、
あの瞬間、
ココにあったという
"生きた"証であり。


時に思い出すための
よすがであり。


やっぱり、
表現せずには
いられないからだと思う。

こころが、
身体が、
求めている。

こころの底から。
表現することを。


そうせずには、
いられないのだ。

コレで、
わたしも一歩前に進める。

ね、おとうさん。

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