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『私は人をだましたい』魯迅

 凄味と云えば、彼の晩年の小品には実際凄味のあるものが多い『私は人をだましたい』『火・王道・監獄』『深夜にしるす』『半夏集』などには凄いものを覚える。どこからその凄味は出てくるかといえば、その文章のもっている政治的戦闘性の故である。強権の圧迫に対する悲痛な叫び、それも表面から堂々と云えないので、無限の含みの内に籠ったものがあるからだ。いくらか病的なものさえ感じさせる凄さだ。晩年の彼はもうすっかり肺臓を病菌に犯されていて、(そのレントゲン写真をとった米国医師は九分どおり犯されている彼の肺をみて、西洋人なら二年前に死んでいるといったそうだ――これも彼自身、そのレントゲン写真を見せながら語った、彼が死ぬ三箇月前のことである)肉体的にも何だか凄いところがあらわれているのを私は感じたが、文章も晩年ほど険しく、痛烈になって来たと思う。

増田渉『魯迅の印象』昭和23年


私は人をだましたい

魯迅


 くたびれて仕方がないときに、偶〻現世を越出した作者を感心して模倣して見る。併し駄目だ。超然たる心は貝の如くそとに殻がなければならない。その上清い水も必要である。浅間山のそばには宿屋ならあるにちがいないが、象牙の塔を建てる人はないだろうと思う。

 心の暫時の平安を求むるために、窮余の一策として自分は、近頃別な方法を案出した。それは人をだますことである。

 昨年の秋か冬、日本の水兵が閘北ざほくで暗殺された。ただちに引越す人が沢山出来、自動車賃等は何倍も高くなった。引越すのは勿論支那人で外国人は道側に立って面白く見て居た。自分も時々見に行ったのである。夜になると非常にしんとして静かになって仕舞う。食物を売る行商人もなく、只時に遠い処から狗の吠声が伝わって来る。併し二三日たつと転居を禁止したらしい。巡査は一生懸命に荷物を引張って行く荷車屋や人力車屋をなぐり、日本の新聞も支那の新聞も異口同声に転居したものに「愚民」と云う肩書をあたえた。つまり実は天下太平で、只だこんな「愚民」があるためにすこぶる良かった天下も騒々しくなったのである。

 自分は始めから動かないで「愚民」の群に参加しなかった。併しそれは知恵のある為でなくなまけた為である。五年前の正月の上海戦争﹅﹅﹅﹅――日本の方は「事変」というのをすくらしい――の火線下に陥ったこともあり、そうしてとくから自由を奪われ、その自由を奪った権力者はそれを持って空中へ飛び上ったから何処へ行っても同じ事だ。支那の人民は疑い深い。どの国の人もそれを可笑しい欠点として指摘して居る。併し疑う事は欠点ではない。始終疑って断案を下さないのは欠点である。自分は支那人であるから良くその秘密を知って居る。実は断案を下して居るのである。即ちその断案と云うのは矢張りとても信用が出来ん。而して事実は大抵その断案の確である事を証明するのであった。支那の人は自分の疑い深いことを疑わない。だから自分は引越さなかったのも、天下太平の確信がある為でなく、詰りどっちにしても危い為だからだ。五年前の新聞を見て子供の屍体﹅﹅の数の多いこと、俘虜﹅﹅の交換のないことに就いて、今でも思い出すと非常に悲痛するのである。

 転居者をいじめ車屋をなぐる位はまだ極小さいことである。支那の人民は常にその血で権力者の手を洗い、又綺麗な人間にならせるのであるが、今度はこの位ですむのだから、まず非常に結構なことであった。

 併し私は皆なが引越しをして居る最中、始終道側に立って見物したり、或は内に居て世界文学史などを読む気にもならなかった。気晴しに遠い処へ活動写真を見に行く。其処へ行くと天下太平だ、即ち皆なが引越して行く処である。入口へ這入ろうと思うと十二三歳の女の子につかまえられた。小学生が水災の義捐金を募集して居るのであって、寒さの為めに鼻までも赤くなって居る。こまかい金がないと云えば非常な失望を目で表わした。気の毒だと思って、活動写真館の中へ連れ込んで切符を買ってから、一円を渡すと「汝は善い人だ」とほめて受取を書いてくれた。その受取を持てばもう何処へ行っても再度義捐金を出す必要がない。ここに於て私、即ち「善い人」も気が晴々となって悦んで中へ這入って仕舞った。何の活動写真を見たか、今はもうちっともおぼえて居ない。兎に角或る英国人が祖国のために印度の残酷な酋長を征服し、又は或る米国人が亜弗利加に行って金持になり非常な別嬪と結婚する、くらいなものであったと思う。それで暫くの時間をつぶし、晩方になって家へ帰って又しんとした環境に這入り込んだ。遠い処から犬の吠声が聞こえて来る。女の子の満足した表情の顔が又目の前に浮き出して、良い事をしたと感ずるが、併し直ちに気持が悪くなって、石鹸か何かを食った様になった。

 成る程二三年前に大変な水害があった。その大水は日本のとは違って何ヶ月も半年もひかない。併し自分は又知っている。支那に水利局と云う機関があって、毎年人民から税金を取って何かやって居るのである。併し反ってこんな大水が出て来た。自分は又知って居る。或る団体が演劇をして金を集めたが、結局二十何円しかなかったから役所が怒って取らなかった。水害の為めの受難の人民が群がって安全な処へ来ると、治安が危いと云って機関銃で追払ったことさえも聞いた。もう皆な死んで仕舞ったのだろう。併し子供らは知らない。まだ死人の為めの生活費を一生懸命に募集し、集らなければ失望し、手に這入れば悦ぶ、併し実は一円位は水利局の役人の一日のタバコ代にもならないのである。併し自分はそれを知って居ながら、あたかも本当に金が災民の手に行くことを信じる様に一円を出した。実はこの天真爛漫な子供の悦びを買ったのである。私は人々の失望する有様を見ることをすかない。

 若し私が八十歳の母上から、天国があるかと問われたら、私は躊躇することなく有ると答えるだろう。

 併しその日の彼の気持は悪かった。子供は年寄りと違ってだましては良くないと考えたかららしい。公開状を書いて自分の心持を打明け、誤解をとく様にしようかとも思ったが、どうせ発表する処があるまいと思ったから中止した。時はもう夜中十二時である。表へ出て見た。

 もう人影も見えない。只一軒の家の簷下のきしたに一人のワンタン売りが居て、二人の巡査と話して居る。平日にはそう見かけない特別に貧乏なワンタン屋で、材料が沢山残って居るから商売の無かったことがじきわかる。二十銭を出し二杯を買って妻と二人で食べた。少々もうからせるつもりである。

 荘子は言うたことがある。「乾いたわだちふなは相互に唾沫をつけ湿気でぬらす」と。併し彼は又云う、「寧ろ江湖に居て相互に忘れた方がよい」と。

 悲しいことに我々は相互に忘れることは出来ない。而して自分は愈〻人をだますことを盛んにやり出した、そのだます学問を卒業しなければ、或はよさなければ、円満なる文章は書けないのであろう。

 併し不幸にしてどちらともつかない内に、山本社長と遇った。何か書けと云われたから礼儀上「はい」と答えた。「はい」と云うたから書いて失望させない様にしなければならない様になったが、詰る処矢張り人だましの文章である。

 こんなものを書くにも大変良い気持でもない。云いたいことは随分有るけれども「日支親善」のもっと進んだ日を待たなければならない。遠からず支那では排日即ち国賊、と云うのは共産党が排日のスローガンを利用して支那を滅亡させるのだと云って、あらゆる処の断頭台上にも日章旗﹅﹅﹅を閃して見せる程の親善になるだろうが、併しこうなってもまだ本当の心の見える時ではない。

 自分一人の杞憂かも知らないが、相互に本当の心が見え瞭解するには、筆、口、或は宗教家の所謂る涙で目を清すと云う様な便利な方法が出来れば無論大に良いことだが、併し、恐らく斯る事は世の中に少いだろう。悲しいことである。出鱈目のものを書きながら、熱心な読者に対してすまなくも思った。

 終りに臨んで血で個人の予感を書添えて御礼とします。二月二十三日。




底本:「魯迅選集第十二巻」岩波書店
   1956(昭和31)年10月7日第1版第1刷発行
   1973(昭和48)年5月10日改訂版第4刷発行
初出:「改造」改造社
   1936(昭和11)年4月号
※旧仮名遣いは新仮名遣いにあらためました。
入力:它足
2024年7月14日作成

日本語は翻訳ではなく原文

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