久しぶりにアートギャラリー行った

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 現代美術、というある程度枠を想像できるスタイルの中で、その表現は、耽美や問いかけや構成の妙であること以上に政治的アジテーションである場合がちらほらある。
 概してよく言えばリベラルな、直接的に言えば左翼的な傾向がそのほとんどであるけど、では保守的で右翼的で国粋的で愛国的な表現はなぜそのスタイルをとらないのか。取れないのか。

 取ったとしても、おそらくそれはソ連における体制補完パンクバンドのような(ものがあったという話を目にしたことがある。ロックだったかも)、あくまで意匠を借りた形になりそうだ。

 expressiveであるのだから、慟哭や異議申し立てみたいな外に訴えるエネルギーを持つものに由来して、それがマテリアルを問わない現代美術を経由?するのは不思議ではない。

 でも今、改めて右派の叫びも熱心だし、例えば君たちのいうようにすでに体制や権力が左翼で中韓の息がかかっているのならば、アンダーグラウンドで表現活動して見せろよ、と思ってしまう。しかしYoutube動画とかデモとか自費出版みたいな方は行くけども、現代美術では攻めてこない。そこが(日本学術会議のような)左派のフィールドだからパスするよ、ということなのか。

 一方で(J-POPにとどまらず)かつては前衛者たちが輸入した表現形式であったヒップホップで家族愛や愛国を歌う人々はすでに多くいるけども、それは2000年代のJ-HIPHOPの時期にマイルドヤンキーカルチャーに膾炙する中で
 ①聴いてるかお前らレペゼン地元→地元大事仲間大事→育ててくれた母ち ゃんありがと→家族愛
 ②聴いてるかお前らレペゼン地元→こんな地元に生まれてよかった→てかこの国に生まれてよかった→愛国
…あたりの2通りのルートを経て定着したのかな。

 じゃあ現代美術はマイルドヤンキーたちが関心を示すようなフロウな情報ではなく、情動よりも抽象度の高い読解やら現状に対して立ち止まって疑義を呈するような作業が必要な、結局のところ左派インテリ主義の表現形式だった故に上記のようなルートが生じる余地がなかったのか。これは多分そんな気がするけども、そうすると我らがマイルドヤンキーにとどくビジュアル表現は現代美術ではなく、インテリアで飾りで商業デザインで、あるいは伝統的な表現なのか。

 地球全体を階級の水平面で切断して捉える左派と、国境の垂直面で切断して考える右派と、(そして、地表面で切断して地底に別世界があると捉える陰謀論者と)この違いが表現の様式を問わないことと問わざるをえないことに関係していることもそりゃあるだろう。でもコンテンポラリーな表現の分野を専攻していて、国家を強く思う人とか、家父長制や夫婦同性に揺るぎない信頼を置く人もいるはず。

 リベラルが日本国旗、米国旗をイタズラっぽく取り扱うことに対して、中国や韓国や北朝鮮の国旗をイタズラっぽく取り扱うものは見かけない。国家のイベントを皮肉る表現はあるが、反国家のイベントを皮肉る表現はない。国家という存在が実は巨大資本とか伝統みたいなニュートラルに考えても圧倒的な力を持つのに対し、反国家、反巨大資本、反伝統、みたいな動き自体が矮小で歴史にすらならないから、皮肉るにはエクスプスなんぞ不要でツイート程度で済むからなのか。

 そして、あくまで仮定の話ではあるけども、例えば現代美術の展示においてとある作品の中で自民党旗が揶揄されている時には、その表現者が左派であろうことを想起するが、日本共産党旗が揶揄されている時には、その表現者が右派であることより先に極左であることを想起するのではなかろうか。


 現代美術におけるアジテーション行為のうちのいくらかは、普遍的な解放への叫びにとどまることはなく、完全に憲法問題や基地問題や国政選挙に対する意見表明になっている。原発の問題に対して異議申し立てをするのであれば、原発廃止運動に対する異議申し立ても並列してあっておかしくはない。芸大時代の東北出身の知人は地元の基盤産業だから一律に停止せよってのはおかしいと思う、と言っていたし、それは切実でエクスプレスするに足るイシューでありうる。

 あってもおかしくない、というだけで、それがないことがおかしい、問題だ!とかいうことではなく。

 でも、芸大とか美大の、特にファインとデザイン系においては、リベラル派(リベラルであるかどうかではなく)が多いのは間違いないので、そうではない考えの人はマイノリティになってしまうとは思う。そうすると、彼らの方がマイノリティであるわけだから、その環境下においてもしその主張をアジテーションとして作品として明らかにした時には周囲の多くの理解を得られないであろう。


 なんて思うと、現代美術のアジテーションが表現化されるまでには、結局その界隈でそれが許されてきたかどうか、という面白くない理由しかないのである。

 だいたい反政府の表現すれば、結構褒められるのだ。これは、文筆業の人が原稿料のマトモな雑誌=保守系雑誌にじわりと吸い寄せられて、自然歓心を買うために保守的な主張をし始めてしまうという現象に近い。


 眠いし明日早いのでもう無理だ。

 なんてことをアレコレ考えてしまうほどに、ひねりの足りていなアジテーション作品を(そしてその作家はそれをやり続けている)見せつけられてしまったよ、ということでした。

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