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本質を知るには名前はいらない?

老子の最初のことば

道の道とすべきは、常の道にあらず。
名の名とすべきは、常の名にあらず。

『老子』 第1章


「これが道ですと示せるような道は、恒常の道ではない。
これが名ですと示せるような名は、恒常の名ではない」
           蜂谷邦夫訳 岩波文庫


意味がつかみにくかったけれど、
『もどってきたアミ 小さな宇宙人』を読むと、
同じようなことを言っている。



「でも、すべての精神に霊感(インスピレーション)をあたえているのはおなじ精神なんだよ。また千年がすぎ、さらにつぎの千年がすぎ、あらたにその進歩と人類の必要に応じて、別の教訓をひろめるために別のひとが選ばれる。こうやって別の師と別の宗教が生まれる。そして、人々はその名前に混乱をきたし、宗教戦争を起こすまでにいたる。でも、それがすべて愛であるその偉大な精神と、愛によって道を照らすために送られてきた師を、どれほど深く傷つけるかということをまったく理解できないでいるんだ」

「知らなかったよ、アミ。じゃその精神ってなんていう名前なの?」

「名前、名前……ほんとうにこまった問題だよ。精神にかんしたことに身分証明書のようなものは存在しないんだ。精神の世界では、分類や分離といった想念は消滅してしまっているんだよ。ただひとが、かってに分類し、ふり分け、限界や境界をつくってしまうんだ。心の中に愛があるときには、宇宙はすべて一体となったひとつの大きな存在だっていることに、いまに気がつくようになるよ」

『もどってきたアミ : 小さな宇宙人』Enrique Barrios / 石原 彰二 p.158


名前をつけるから、区別され、別々のものになり、分離して、争いが起こる。そもそも同じもののはずなのに……

私たちが水と呼ぶものを、外国ではウォーターと呼び、目に見えるものは水とウォーターは同じものだと認識できたとしても、目に見えない精神が同じものだと気づかない。

「宗教の意味が愛を実践することだということがはっきりと理解できないでいるかぎり、宗教や師の名をはり合ったところでなにも得るものなんかないんだ」

『もどってきたアミ : 小さな宇宙人』
Enrique Barrios / 石原 彰二 p.159

その精神の本質が何か。それをとらえることができなければ、どんなに名前のついた言葉であれこれ考えたとしても、何も会得したことにならない。机上の空論というのも、似たようなものなにかもしれない。

名のついた言葉で考えているだけでは、なんにもならない。
それは体験して、感じて、腑に落ちて、なんだか言葉にならないけれど、こういうことかとわかったときに、そのものを初めて知るのだと思う。

そうして得た感覚を、人に伝えようと悪戦苦闘してきたのが、
人間の歴史なのかもしれない。



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