九条心華 (くじょう しんか)
自分らしく、幸せに生きるにはどうしたらいいのか。心悦ぶ幸せな人生とは。自由に生きられるようになった今だからこそ、私の体験を通じて得た自分らしい道の見極め方について綴ります。
心の動きが、私たちの人生をつくっています。どんな心もちでいれば、幸せに生きられるのかについて、考えたこと。心理は真理
人生を変えるためにどうすればいいのか。私が経験して、人生を変えてきたことについて。
いけばなから生き方を知る。
天狼院書店の記事として公開されている文章です。まさかこんなふうに生きるとは思っていなかった私の人生を赤裸々に綴っています。
自分らしく生きるには、どうしたらいいのか。 何をやりたいのか、 何が好きなのか、 自分がわからない。 そんな状態から、 大好きなものに囲まれて、 幸せに暮らせるようになる2つの方法を 下記のインタビューでお伝えしました。 私自身が嫌なものを削ぎ落とし、 自分の心地よさを感じることで、 自由に思い通りに生きられるようになるまでのことをお話ししています。 下記のURLをクリックして、ご覧いただけると嬉しいです。 https://youtu.be/SZGNE4tTxbc
若松 英輔さんが指南役の 100分de名著「100分de名著. 新約聖書 福音書」 を観た。 イエスの12人の弟子は、 立派というよりもむしろ 愚かだったという。 イエスの教えを全くわかっていなかった。 イエスは愚かな者を弟子に 選んでいたのではないかという。 優れた人間だからイエスの弟子になれるのではない。 信仰心の厚い人たちが素通りして助けなかったのに 当時差別を受けていたサマリア人が 困っていた人を助けてあげた。 イエスは行ってその人と同じようにせよと言った。
映画「すずめの戸締り」に出てくる 閉じ師 草太が言った言葉に、 老子と同じだと思った。 老子は、ものごとがうまくいっているとき それをうまく動かしているものは 透明になっていなければならない というようなことを書いている。 例えば、空気とかなくてはならない けれど無味無臭で、 重力というような自然の法則は 全世界で当たり前に働いていて 意識されない。 草太が担っている役割は、 とても大事な仕事だけれど 人に知られてはいけない。 そういう存在たちに 私たちはいつも 護ら
頑固でつい意地を張ってしまう。 好きな人が思い通りのことをしてくれなかったら、 怒って、やさしくできない。 そんなよくある心の動きを描いた 200年前の究極の純愛ラブストーリーが ジェイン・オースティンの『説得』だった。 オースティンの最も有名な小説 『高慢と偏見』を読んで とても感銘を受けて、 他の小説も読みたくなって読んだ。 若かりし頃にヒロインである婚約者に振られてしまったの男性は、 彼女のことを恨んで許せなかった。 振られてしまった腹いせに、別の女性と仲よくしよ
NHK朝の連続テレビ小説の「虎に翼」に 登場する主人公の小学生の娘に、友だちはいない。 娘は声をかけてくれた友だちに、 先生に言われたからといって 無理に一緒にいなくていいよ と言った。 友だちがいて当たり前 だとか 友だちはたくさんいるほうがいい とか なんとなく一般的にそう思われているけれど、 当たり障りのない表面的なつきあいをする友だちとか 世間体だったり、 学校で人に変に思われないためだけの友だちは 友だちがいると言えるだろうか。 私も小学校にあがったとき、 友だ
幸せってどこにあるの? しあわせの青い鳥について書かれた メーテルリンクの『青い鳥』を 初めて読んだ。 有名な『青い鳥』のあらすじは なんとなく聞いて知っていたが、 ちゃんと読んでみたいと思った。 幸せって何なのか? 私にとって幸せなことってどんなこと? どうすれば幸せな気持ちでいられるの? そういうことが全然わからなくなってしまったから。 頭で考えれば考えるほど、 わからなくなる。 私はどうしたいのか。 私はどうやって生きたいのか。 私はなんのために生きているのか
老子の最初のことば 「これが道ですと示せるような道は、恒常の道ではない。 これが名ですと示せるような名は、恒常の名ではない」 蜂谷邦夫訳 岩波文庫 意味がつかみにくかったけれど、 『もどってきたアミ 小さな宇宙人』を読むと、 同じようなことを言っている。 名前をつけるから、区別され、別々のものになり、分離して、争いが起こる。そもそも同じもののはずなのに…… 私たちが水と呼ぶものを、外国ではウォーターと呼び、目に見えるものは水とウォーターは同じもの
おとぎ話のような小さな宇宙人アミについて少年が語る物語で、アミが語ることばに、魅了された。 宇宙の基本法則を教えてくれて、それを守ることが地球が生き残る唯一の方法だという。 それが、愛。 アミはシンプルに、生き方について教えてくれる。 そして、本物を感じることの大切さを教えてくれた。 幸せを得るのはどうしたらいいのか。 お金があっても、欲しいものをすべて手にいれて裕福でも、 健康でも、何の問題がなくても、幸せを感じられないのはどうして? そこに、愛があるかどうかだ。
トルストイ自身がよい作品としたものは何か。 トルストイがよい作品としたのは、 よい内容で、 その内容にふさわしい形式で、 作者が心をこめて表現したものだった。 よい内容とは、 すべての人に共通の真理をもっていること。 トルストイにとってのよい作品は、 名作『戦争と平和』でも 『アンナ・カレーニナ』でもなかった。 逆にそれらは、よくない作品ときめつけるほどだったという。 トルストイがよい作品としたのは、 誰もが読みやすくわかりやすく表現した民話だった。 最高の真理は、
選択を間違えたとか あのときこうすればよかったとか 後悔するとき、 あの選択が正解だったのにとか ああすれば完璧だったと思いこんでいる。 そして、そうしなかった自分を責めて 苦しくてしかたがない。 でも、過去は幻で、過去はない。 なぜなら、今この瞬間しか存在しないから。 一瞬一瞬過ぎ去っては過去になっていく。 それを選択した道は生きていないから その道が正解かどうか考えてもわからない。 自分が選択した道しか生きていないから。 そう言い聞かせても、 感情がおさまらなか
後悔の思いや自責の念が 頭をぐるぐるして苦しいとき どうすればいいのか。 考えたってどうしようもない 過去のことにとらわれて、 あのときああすればよかったと 自分を責める。 頭から離れない。 非生産的で、後ろ向きで、 こんなこと考えたくないし、 忘れたいし、気持ちを切り替えたいのに、 気づけばぐるぐる同じことを思考していてつらい。 考えないようにしようとすればするほど、 そのことを考えてしまう。 結果に執着しているからだと 手放したいのにやめられないのが 人間の性な
老子の考え方に、 物事を動かす働きをしているものは、 透明になっていないといけない というようなことがある。 例えば、扇子であおいで涼むときには、 風を気持ちいいと感じるけれど 扇子を意識していない。 扇子を意識して壊れたら困るからと そうっとあおいだら風は生じない。 コップは中に飲み物を入れられるから その役目を果たすのであって、 100万円する高価なもので汚してはいけないからと 何も入れなかったら、その役目を果たせない。 それは人も同じで、 うまくいっている会社や
図書館で1年ぐらい予約待ちした本を読んだ。 絶版になっていて、図書館で借りようとしたら すでに何十人も予約が入っていた。 子ども向けの本で、小さな宇宙人が出てくる物語だった。 宇宙の法則について、すこしずつわかりやすく 主人公のもうすぐ10歳になる僕に教えてくれる。 すべてのものはつながっている。 このことはとても感じる。 先日、東京国立博物館に光悦展を観に行った。 閉幕間際で混んでいて、朝一番に行列に並んで入った。 その展覧会場内で、観ようとした作品の前に 知人が立っ
自分をゆるす。 いつも意識しているし、 自分を責めるつもりもないのに、 無意識が自分を責めているらしい。 私が判断したこと 選択したことが 悪い結果になったと感じたら、 あのときなんでこうしなかったんだろう あのときこう選択していたらよかった などと後悔の念が渦巻く。 そして、生きていくのがつらくなる。 それは、自分を責めている。 後悔の念とは、自分を責めること。 それがつらくて生きていられないほど 生きていく自信をなくしてしまうほど 自分が自分を責め続ける。 今日
ミヒャエル・エンデの主人公のモモは、 友だちを失って、孤独感から 自分の道をまげかけていた。 そんなときに気づく。 私が友に何かしてもらおうとするのではなくて、 私が友を助けなくちゃと。 この世界の時間を与えている マイスターホラに言われる。 ここぞという大切なときは 自分自身だけしか頼りにできない。 誰かにすべてやってもらおうとすれば あやつり人形となってしまう。 そして、誰しもに、自分で生きる力が備わっている。 自分を信じて進もう。
よくなるためにはがんばらないといけないとか よくなるために何かしないといけないとか そう思えば思うほど、道は遠のく気がする。 ミヒャエル・エンデの『モモ』を 数日かけて、ゆっくり楽しみながら読んでいた。 そんなとき、このブログを読んで、号泣した。 そう頭で言い聞かせはするけれど、 腑に落ちていなかったのか、 どこかで時間がもったいないとか、 何もできていなくていいのかとか、 私が自分を責めていた。 号泣した。 何もできなくてもいい。 ただ流れていくときをみているだけ