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【最強の凡人】「特別でありたい」という呪い。天才と才能の正体。本物の賢者はどこにいるのか。


恥を晒します。

子どもの頃、僕は「特別」な人間になりたいと思っていました。

なぜそう思っていたのか……今ではもう、わかりません。

理由を忘れてしまったような気もするし、最初から理由なんてなかったような気もします。ただ確かなことは、当時の僕が「特別」ではなかったということです。

それから、たくさんの時間が過ぎて、色々なことがありました。

僕はすっかり「無理をすること」に慣れ、「勝てない勝負を無理矢理に勝つ」ことができるようになりました。

その結果、幾人かの人たちに認められ、何人かの人から「特別」だと言われるようになりました。

そうして「特別」となった今の私は――「名前のない凡人」になることを目指しています。

これは、そんな内容の独り言です。

気が向いた方は、暇つぶしにどうぞ。


1. 「特別」への憧れ

子どもの頃の私に限らず、昨今は「特別」になりたいと願う人が増えているように感じます。

これは「環境」と「本能」が大きな要因ではないでしょうか。

私の場合は両親と祖母が厳しく、学校で一番の成績を取ることを強要されたことが全ての始まりだった気がしますが、そうでない人も、学校や家庭内での環境が「特別」であることや「優秀」であることを要求したケースが多いようです。

そもそも、「学校」という環境自体が、会社よりも熾烈な「競争社会」であることも事実です。

勉強ができる子、運動が得意な子、話が面白い子、容姿の優れている子などがクラスで幅を利かせ、特に突出した能力のない子が教室で肩身の狭い思いをする……というのは、何十年も続いている現実だと思います。

そんな「環境」で生活していれば、安心して生きるために「能力」の獲得を――「特別」であることを目指すのは、至極当然の流れなのかもしれません。

元々、私たちは「なにもできない赤子」として生を受け、この世を生きていくために「無力な状態を脱したい、今より向上したい、理想の状態に近づきたい」という欲求、「本能」があるのです。そこに幼少期の「環境」が重なれば、「特別」への憧れを募らせる人が増えるのも、仕方ない話なのかもしれません。

ただ、もし現在の私がタイムマシンに乗って過去の自分に会うことができたら――

「その憧れは『呪い』だ。『特別』になればなるほど、キミは自身の『幸せ』から遠ざかるよ」

と教えてあげたいです。


2. 天才と才能の正体

私は「特別な人間」を「天才」と呼んでいます。

なぜなら、規模の大小こそあれ、「特別」と「天才」の構造は同じだからです。どちらも「才能」を持っています。

これは私の独自解釈ですが、私は「天才」と「才能」を次のように定義しています。


「天才」とは、「人生のリソースを一つの分野に集中した人」。

「才能」とは、「本人の無意識下で蓄えられた、無限にも等しい努力」。


当たり前ですが、誰もが最初は「無力な赤ちゃん」です。

生まれた瞬間からサッカーボールを蹴れる人もいなければ、論文を書ける人もいません。容姿だって、「生後0ヶ月で圧倒的美少女!」なんて人がいたら、びっくりするでしょう。

それがどんな分野であれ、「特別な人間=天才」となるためには、能力を磨く必要があります。

そして、その「能力を磨く」という努力を、「意識的」にするのか「無意識的」にするのかが、「才能」の分かれ目です。

大抵の場合、「意識的な努力」は「無意識的な努力」に勝てません。

ほとんどの人は学校の勉強が嫌いだったと思いますが、学年に一人くらいは「楽しんで」勉強をしている子がいたはずです。「いやだなー」と思いながら勉強をやっている子は、「楽しんで勉強をやっている子」に勝てません。


そして、「楽しんで勉強をやっている子」は、「無感情に、なんとなく勉強をやってしまう子」に、決して勝てないのです。


なぜなら、「なんとなく勉強をやってしまう子」の方が、長時間勉強するから。……単純な話です。

「才能=能力」は、どこまでも公平な「努力の累積」です。

「あの子はたまたま適正があった!」とか「素質があった!」とか叫ぶ人もいますが、その「適正」や「素質」を獲得するために、必ずどこかで努力をしているはずです。なぜなら、みんな最初は「なにもできない赤ちゃん」だったのですから。

そして、本物の「天才」の場合、その「努力」は本人にも周囲にも見えません

上で挙げた例で言えば、「いやだなーと思いながら勉強をやった子」と「楽しんで勉強をやった子」は「勉強をした!」という自覚があるのですが、「なんとなく勉強をやってしまった子」は無意識なので、特に勉強したことを覚えていないのです

これは勉強以外にも当てはまります。

なんとなくボールが好きでよく触っていた、なんとなく親の持っている小説を隠れて読んでいた、怒られるのが嫌で無意識に大人の顔色を窺ってしまう、黙っているのが嫌で常にだれかと喋っていた、etc……。

無意識にやっていることが「努力」となり、本人も気づかない内に「能力」を育て、それが常人の域を超えた時に「才能」と呼ばれるようになる。

そしてその時、晴れてその人は「天才=特別な人間」と呼ばれるようになるのです。

ですから、意図的に「特別な人間」を目指す行為は、地獄です

自分が無意識にできないことを意識的に無理矢理やって、しかもその「努力」の量を「無意識にやっている人」と同じくらいまで積み重ねなければならないのですから。

だれかに認めてもらえるくらいの「特別」になった頃には、心身ともにボロボロで、すっかり「自分自身の幸せ」からは遠のいていることでしょう。


3. 本物の賢者

以上が私の、人生を通しての失敗談であり、愚行の思い出話です。笑ってください。


「特別な人間=天才」とは、「なってしまう」ものであって、「なる」ものではない。


それが、無理矢理に「特別」となった、私の結論です。

現在の私は「特別になりたい」だなんて微塵も思っておらず、むしろ積極的に「凡人」を目指し、力を抜き、ラクをして……自分自身が「自然」であるように努めています。

「特別」にはなれない、なっても幸せから遠ざかる――そんな話に絶望する方もいらっしゃるかもしれませんが……これは朗報として、ここに記しています。

なぜなら、本来はだれもが「天才」なのですから。

人は生きている限り、必ずなにかをしています。

「なにもしてない!」と即座に反論する人でさえ、現在進行形で私の文章を読んでいますし、ごはんを食べていますし、スマホをいじっています。家族と会話することもあれば、友人のLINEに返信した人もいるでしょう。

そういった「無意識の行動」は「努力」となり、本人も気づかない内になんらかの「能力」として累積されています。そう。今この瞬間にも、私たちはなんらかの「才能」を育み、「天才=特別な存在」への階段を登っているのです。

もしその階段が「こうなりたい!」という自分の理想像に近ければ、ほんの少しだけ意識的に努力するのもいいかもしれません。

しかし、その階段が理想像とかけ離れていれば、自分だけの道を気楽に歩いていくのもアリだと思います。その道は必ず、自分だけの「特別」に繋がっているのですから。

この記事は「特別」になれない、というお話ではなく、自然体で生きていけば「特別」になってしまう、というお話でした。

わざわざしんどい思いをして「だれか」に認めてもらわなくても、自分らしくラクに生きていれば、勝手に「特別」になります。……そもそも、「特別になりたくない! 凡人になりたい!」と思っている人の方が少数派でしょうから、それを選んだ時点で、ある意味「特別な存在」ですしね。(苦笑)

そんなことに気づいてから、私の人生を振り返ってみると……これまで出会った人たちの中に「特別」になれるのに、あえて「特別」にならなかった人も、何人かいたことに気づきました。

その気になれば人気者になれるのに、すごい成果を挙げられるのに、下手をすれば歴史にその名を刻むことだって、できたかもしれないのに――あえて「名前の無い凡人」であることを選び、他者からの称賛を得るための労力を、全て「自分だけの幸せ」を得るために集中して使った人たち。

言わば、「社会的な天才」となることを拒絶し、「自分を幸せにする天才」となることを選んだ人たち。

彼らこそ、歴史にその名さえ残さなかった「怪物」で、「本物の賢者」なのだと、私は心から尊敬しています。

願わくば、私も、そのような「凡人」になりたいものです。


最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。


4. 参考文献 (敬称略)

① 嫌われる勇気  岸見 一郎 古賀 史健

② 反応しない練習  草薙龍瞬

③ 幸福になりたいなら 幸福になろうとしてはいけない
  ラスハリス 岩下慶一・訳


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