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解放を閉じ込める——映画「特捜部Q 檻の中の女」

映画「特捜部Q 檻の中の女」は、デンマークの人気小説を映画化した特捜部Qシリーズの第1作目です。特捜部Qシリーズは、変わり者の警察官カールとアサドのコンビが、さまざまな未解決事件に立ち向かう、北欧版「相棒」とでも呼ぶべき作品です。

この記事では、これから特捜部Qを観たいと思っている方に向けて、簡単に特捜部Qシリーズの概要と魅力をご説明したうえで、第1作「檻の中の女」における解放のイメージについて考察していきます。

※この記事の「4.さまざまな檻」と「5.裏返された解放——解放を閉じ込める」にはネタバレが含まれています。作品をまだご覧になっていない方は、ご注意ください。

1.特捜部Qシリーズの概要

本題に入る前に、特捜部Qシリーズの概要を確認しておきましょう。現在までに、特捜部Qシリーズの映画は4作が公開されています。

1.檻の中の女 (2013)
2.キジ殺し (2014)
3.Pからのメッセージ (2016)
4.カルテ番号64 (2018)

さらに、"Marco effekten"が2020年現在、5作目として製作されています。ちなみに、この作品の原作小説は「知りすぎたマルコ」という題ですでに邦訳されており、ハヤカワ・ミステリ文庫で読むことができます。

特捜部Qシリーズは1作ごとにストーリーが完結するようになっているため、どの作品から観始めても楽しむことができます。ただし、シリーズの魅力を最大限に味わうためには、1作目「檻の中の女」から順を追って観ていくことをおすすめします。これは、特捜部Qシリーズの最大の魅力が、主人公カールと相棒アサドの人生が事件と交錯していくさまを丁寧に描き出している点にあるからです。

2.単なる謎解きには終わらない、特捜部Qシリーズの魅力

特捜部Qシリーズでは、事件の謎を解き明かして犯人を探り当てるというミステリーの醍醐味を味わうことができます。しかし、特捜部Qの魅力はそれだけではありません。このシリーズ独特の面白さは、カールとアサドというはみだし者の警察官二人が事件の捜査を通じて、鏡を覗きこむように自分たちの姿を見出していくところにあります。

実は、特捜部Qシリーズでは、謎解きを主眼とするのであれば省略しても構わないような場面がじっくりと描かれています。また、意外な展開やどんでん返しは少なく、一見すると展開に派手さを欠いているようにも思われます。そのため、テンポのよい展開やあっと驚く結末を好むミステリーファンには物足りないと感じられてしまう場合もあるかもしれません。しかし、特捜部Qシリーズは展開の意外性よりも、カールとアサドが事件と関わることによって自分たち自身について理解を深めていくプロセスを丁寧に描くことに重点を置いているのです。

カールとアサドは、神のように中立的に事件を見通したり、犯人に裁きを下したりすることはできません。二人は、事件の当事者たちと同じようにさまざまな背景を抱えた人間にすぎないからです。事件の捜査を通じてあぶり出されていくのは、カールとアサドという捜査する者たちの真実や欲望です。特捜部Qシリーズは、捜査や真相究明といった作業が決して中立的には行われないという点にあえて光を当てています。カールとアサドは、それぞれにバックグラウンドを抱えた人間であるために、第三者として冷静に事件を解決していくことはできません。事件の解決は否応なく二人にとって、自分自身と向き合うことをも意味するのです。

そもそも「特捜部Q」は、過去の未解決事件のファイルを整理する部署として作られました。主人公カールは刑事としての判断を誤ったことで、新設の部署「特捜部Q」に左遷されます。「特捜部Q」は、何の働きも期待されていない、いわば人材の掃き溜めのような部署であり、カールは事実上、現場からの引退を強いられたのです。

しかし、「特捜部Q」に放り込まれたカールとアサドは、数多の未解決事件のファイルの中から、解決すべき事件を見出し、勝手に捜査に乗り出していきます。ここで重要なのは、事件がカールとアサドとは無関係に、二人の外部に存在するのではなく、二人が発見していくものだということです。つまり、未解決事件のファイルが集められた「特捜部Q」というこのシリーズの設定は、カールとアサドの人生を事件と効果的に交錯させるために選ばれたものだといえるでしょう。

事件の全貌が明らかになっていくにつれて、カールとアサドの人生も立体的に浮かび上がってくる点にこそ、特捜部Qシリーズの魅力があるのです。

こうした特捜部Qシリーズ特有の魅力を十分に楽しむためには、「檻の中の女」から順番にシリーズを鑑賞していくことがおすすめです。順を追ってシリーズを鑑賞していくことで、カールとアサドそれぞれのキャラクターや二人の人生について理解を深めながら、ミステリーを楽しむことができます。

3.「檻の中の女」あらすじ

「檻の中の女」における解放のイメージについて具体的に検討していく前に、「檻の中の女」のあらすじを簡単にご紹介しておきましょう。

刑事のカールは、現場での判断を誤ったことで二人の部下のうち一人を死に至らしめ、もう一人に重い怪我を負わせてしまいます。その責任を問われ、カールは特捜部Qという書類整理をする部署に左遷されます。

特捜部Qにはカールと一緒にシリア系のデンマーク人アサドが配属されていました。アサドととともに未解決事件のファイルに目を通しているうちカールは、五年前に若い女性議員ミレーデ・ルンゴーが失踪している事件に不審な点があると思い始めます。彼女の失踪は自死として片付けられています。しかし、状況から自死ではないと感じたカールは、アサドとともにこの事件を再調査することにします。

はたしてミレーデの失踪に隠された真実とは何だったのでしょうか? カールとアサドはミレーデの身辺や過去を丁寧に探っていくことで、事件の真相を明らかにしていきます。

ところで、「檻の中の女」のジャケットや題名の字体が陰鬱な印象を強調しているので、ホラーの要素があるのではないかと思われた方もいるかもしれませんが、極端に恐怖を煽るような演出や過度にグロテスクな描写などはありません。そうした表現が苦手な方でも楽しむことができます。

※これ以降の内容にはネタバレが含まれますので注意してください。

4.さまざまな檻

「檻の中の女」というタイトルから推察されるように、行方不明になって自死として処理されていたミレーデは、監禁されて生きていました。ミレーデは、幼い頃に自動車の衝突事故で両親を失っていました。ミレーデが乗っていた自動車と衝突したもう一台の自動車には、少年とその両親が乗車していました。ミレーデを五年間にわたって監禁していたのは、大人になったこの少年ラース・イェンセンだったのです。

監禁というラースの復讐については、「5.裏返された解放——解放を閉じ込める」にて詳しく考察していきます。その前にまずは、映画「檻の中の女」に登場する、さまざまな檻のイメージを確認していきましょう。

「檻の中の女」で、檻に閉じ込められているのは事件の被害者ミレーデだけではありません。この作品には、広義の檻に閉じ込められた人物たちが多く登場します。檻とは物理的な空間であり、過去や罪といった抽象的なものでもあります。

たとえば、主人公カールは地下室にある特捜部Qに閉じ込められています。これは物理的な空間であると同時に、カールから職務や権限を奪う精神的な檻でもあります。カールはその状況から抜け出そうと、積極的に勝手な捜査を進めていくことになります。

また、カールの過去も彼を捕らえる檻となっています。カールは捜査中に誤った判断をし、二人いた部下のうち一人を死に至らしめ、もう一人を寝たきりの状態にしてしまいました。カールは毎日のように寝たきりになった元部下ハーディのお見舞いに行きます。ハーディは、ままならない身体に閉じ込められて苦しみ、「生き地獄だ」と口にしています。

自分だけは無傷で生き残ったカールは自分を責めていますが、カールは部下を動かない身体という檻に閉じ込めただけではありません。カール自身もまた自らの犯したミスによって檻に閉じ込められることとなったのです。カールの檻とは、特捜部Qという地下室であり、意に反して震え出す彼自身の身体です。彼は振戦というトラブルを抱えているのです。過去の罪は、物理的な檻となって彼を苦しめます。

また、ミレーデにはウフェという弟がいます。ウフェは、幼い頃に姉ミレーデと自動車事故に遭ったことで精神障がいを抱えています。姉との生活では笑顔を見せることもあったウフェですが、姉の失踪により状態が悪化してしまっていました。ウフェは療養所に入院していますが、施設のスタッフでもコミュニケーションは難しい状況です。

カールとアサドは捜査のためにウフェから情報を聞き出そうとしますが、なかなかうまくいきません。心を閉ざしたウフェは、質問に対して反応すらしてくれないのです。療養所の中で無表情に前方を見つめるウフェもまた、檻に閉じ込められているといえるでしょう。

さらに、この作品に漂う重苦しい閉塞感は、観客たちにも檻の中にいるような息苦しさを感じさせます。登場人物たちがそれぞれの檻に囚われているさまを「檻の中の女」は丁寧に描写しているのです。

5.裏返された解放——解放を閉じ込める

檻からは解放されなくてはいけません。

カールとアサドは、加圧器という檻に閉じ込められていたミレーデを発見し、救い出します。この結末はハッピーエンドと言えそうです。また、解放されたミレーデはきっと、弟ウフェの閉ざされた心を解放していくでしょう。さらに、捜査を通じて相棒アサドとの信頼関係を築き始めたカールもまた、解放=快方に向かっているのかもしれません。

しかし、ここで着目したいのは、なぜ犯人ラースはミレーデを加圧器に閉じ込めたのかという問題です。この点について考えていくと、登場人物たちのその後についての楽観的な見通しは修正を余儀なくされるようにも思われます。

ラースの犯行は残虐です。理由も告げずにミレーデを誘拐して加圧器に閉じ込め、気圧を上げていきます。誰になぜこのような仕打ちを受けているのかもわからないまま、ミレーデは身体にかかる負荷に耐え続けなくてはいけません。

しかし、ミレーデを加圧器に閉じ込める、というラースの復讐はただ残虐さを指向して選ばれたのではありません。ラースは加圧器の中のミレーデに圧力をかけて苦しめたかっただけではなく、最終的に減圧によって彼女を殺害したかったのです。徐々に圧力をかけて高い気圧に馴らしたミレーデの身体を、急激な減圧によって破裂させることがラースの目的でした。では、なぜラースはわざわざ減圧によってミレーデを殺害したかったのでしょうか?

ラースは加圧器から空気を抜いてミレーデの殺害を実行する前に、自分の正体を彼女に告げます。幼い頃にミレーデが両親を亡くした自動車事故で、ラースの父は死亡し、母は障がいを負いました。ラースは事故の直前、ミレーデがふざけて運転をしていた父の目を後ろから塞いだところを見ていたため、ミレーデに事故の責任があることを知っていました。ラースは、幼い自分の運命を変えてしまった事故の復讐を果たすため、ミレーデを監禁して殺そうとしていたのです。

印象的なのは、事故直後の幼いラースの記憶です。横転した車から投げ出されたラースは、真っ白な雪景色のなかに立ち尽くすミレーデの姿を見ます。陰鬱で閉塞感の漂うこの映画の全編を通じて、この場面は唯一、解放感に満たされています。事実、幼いミレーデ、その弟ウフェ、少年ラースは、車という小さな檻から事故の瞬間に解放されたのです。もちろんこの解放感はまやかしでしかなく、車という小さな檻の破壊は結局、長期にわたって三人を閉じ込める残酷な檻になっていくわけですが……。

ラースが犯行に及んだ直接のきっかけは、テレビに映ったミレーデをたまたま見つけたことでした。ラースは、幼い頃からずっと復讐を誓って生きてきたわけではありません。しかし、テレビで何の屈託もなく明るい表情を見せているミレーデを目にしてしまったことによって、復讐心を煽られるのです。

事故によって苦難の少年時代を強いられたラースは、事故の影響から逃れられない人生、つまり過去という檻に閉じ込められた人生を歩んでいました。そんなラースは、ミレーデの解放されている様子が許せませんでした。あの事故の日にもあんなにも自由に見えたミレーデ、事故の影響など微塵も見せずに生きているミレーデ、罪や過去から解放されているように生きるミレーデに、ラースは復讐したかったのです。

ラースが、ミレーデを加圧器に閉じ込めて長期間監禁したたうえで、減圧によって身体を破裂させるという迂遠な殺害方法を選んだ理由はここにあります。ラースは、解放や自由とは無縁に、過去という檻の中で生きてきました。事故の責任があるはずなのに自由にのびのびと生きるミレーデに対し、ラースは解放されるということがそのまま無残な死に繋がるような殺害方法をわざわざ選択したのです。つまりラースは、自分には手の届かない解放という観念そのものに復讐しようとしたのでしょう。だからこそ彼は、檻からの解放がそのまま死に直結するような奇妙な殺害方法にこだわったのです。

ラースの戦略は、解放を閉じ込めるというものです。この復讐から逃れることはできません。解放は裏返され、檻の中は地獄、檻の外もまた地獄となったのです。

「檻の中の女」では、カールとアサドの活躍によって、ミレーデは無事に救出されます。しかし、解放の可能性そのものを根こそぎにしようとしたラースの復讐の恐ろしさは、そのような解放自体が別の檻の始まりにすぎないと示唆していることでしょう。そのように考えると、ミレーデと弟ウフェや、カールと相棒アサドの未来について、それほど楽観的ではいられないのです。

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