私が活字に触れるようになったきっかけの話し
私の家は特に読書を好きになる環境ではありませんでした。
唯一?家にあった小説は、母親が好きで読んでいたドリトル先生シリーズでしたが、訳本だったので、読みにくいと感じてしまって早々に挫折。
しかし、何故か活字に飢えていた私は同じ百科事典を何回も何回も眺めていた記憶があります。
小さい頃の話しなので、あまりはっきりとは覚えていないのですが、小説と言われる読み物を手に取るようになったのは、小学校の中学年くらいだったと思います。
国語の授業中、クラス皆で図書室に行った時に、絵の多い本を選ぶ子が多い中、ある同級生が小説を手に取っているのが目に入ってきました。
え、その分厚さで殆ど文字のそれを自分と年の変わらないあなたが読むの、、??
と、衝撃を受けたのを覚えています。
と、同時に自分もその子と同じシリーズの小説を手に取っていました。
何故かそこで変な負けん気が働いたんですよね(笑)
私も読めるし。みたいな(笑)
なので、最初は物語りを楽しむ余裕はなく、挿し絵と読んだ達成感を励みに頑張って読書をしていました(今でも何がそこまでさせたのか謎、、)
しかし、私がこの出来事に運命を感じるのは友達の真似をして手に取ったその小説が
はやみねかおる先生の夢水清志郎シリーズだったことです。
と言うのも、
筆者のはやみねかおる先生が小説を書き出した理由というのが、元々小学校教諭だった時代に、活字嫌いの生徒達のために本を探すうちに自ら書きはじめてしまった、という何とも子どもへの愛に溢れた理由だからです。
あの時、夢水清志郎シリーズに出会ってなかったら、そんなに一生懸命活字を追ってなかったかもしれないな〜、と思います。
そう、
はやみねかおる先生の思惑通り、
私は物語りの世界に夢中になっていました。
物語りは、自分が感じたことのない感情をあたかも当人であるかの如く、体験させてくれます。
それは楽しいことばかりじゃありません。
悔しかったり、悲しかったり、寂しいこともあります。
でも、こうやって色んな人の感情を疑似体験することで、人間としての深みが増すと私は思います。
こんな風に考える人も居るんだな、とか
こんな状況になったら、こんな気持ちになるんだな、とか
例え、物語りの中の出来事でも、読んだ人にとって、それはひとつの経験になると思うんです。
こんな素敵な世界を知るきっかけをくれたはやみね先生には本当に感謝しています。
ゲームや動画も楽しいけど
感性が豊かなうちに沢山の物語りに触れることってやっぱり大切だよな〜、と私は思います。
最初から、私の活字愛?(笑)が暴走気味で失礼しました。
はやみねかおる先生のように、自分も書きたいと強く憧れていたはずなのに、気が付けば大分物語りや活字から離れた生活をしてしまっていました。
noteというプラットフォームをお借りして、書くことに少しずつ挑戦していこうと思います。