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怒りを超えて菩薩の道を歩む

人から怒りを向けられたり、不利益な行いを受けたりしたとき、どのようにして平静でいられるのでしょうか?

次のように考えるべきです。

「衆生(あらゆる生命)は、過去において互いに侵害し合ったことがあるため、再び巡り会った際にも侵害し合うことがある。私が今、不利益を受けているのも、過去世における因縁が原因であり、現世で悪行を犯したわけではなくとも、それが前世の悪報として現れたものだ。これを今、自ら償わなければならないのだと受け止めるべきであり、甘んじて受け入れ、仕返しをするべきではない。ちょうど、借金をした者が債権者に請求されれば、喜んで借りを返すべきであり、怒りを抱くべきではないのと同じである。」


そして、修行者は常に慈悲の心を持ち、たとえ酷い仕打ちを受けても、ひたすら耐え忍ぶ。

こんな話がある。
かつて、深い森に忍辱と慈悲の修行に励む仙人が住んでいた。ある日、迦利王が女官たちを連れ、森を訪れた。食事を終えた後、王は休息を取り、女官たちは散策に出かけた。花が咲き乱れる林を歩いていると、偶然にも仙人の住処にたどり着いた。仙人の清らかな姿に敬意を覚えた女官たちは礼拝し、一歩下がって座った。仙人は慈悲と忍辱の徳について語り、巧みな説法を始めた。女官たちはその話に心を奪われ、時が経つのも忘れて耳を傾け続けた。

やがて目を覚ました王は、女官たちの姿が見えないことに気づき、不機嫌になり剣を手にして後を追った。すると、女官たちが仙人の周りに集まっているのを見つけ、激しい嫉妬に駆られた王は仙人を睨みつけ、声を荒げて問い詰めた。
「お前は何をしているのだ?」

仙人は穏やかに答えた。
「私は忍辱と慈悲の修行をしております。」

王は不遜に笑い、言い放った。
「ならば試してやろう。今からお前の耳や鼻を切り落とし、手足を斬りつける。それでも怒らないなら、お前を本物の修行者と認めてやる。」

仙人は静かに答えた。
「どうぞ、好きなようにされてください。」

すると、王は剣を振り上げ、仙人の耳と鼻を切り落とし、手足を斬りつけた。そして尋ねた。
「お前の心はこれで動揺しただろう?」

仙人は穏やかに答えた。
「私は慈悲と忍辱の修行を続けています。心は微塵も乱れておりません。」

王はその言葉を嘲笑し、言った。
「そんなこと、誰が信じるものか!」

すると仙人は天に向かって誓いを立てた。
「もし私が本当に慈悲と忍辱を修行しているならば、私の流す血が乳に変わるであろう。」

誓いが終わると、仙人の傷口から流れる血が白い乳に変わり、王は驚愕した。動揺した王は女官たちを連れてその場を去ったが、去り際に仙人を振り返ることもなく逃げるように歩き去った。

その時、森に住む竜神が怒り、雷鳴と稲妻を轟かせた。王はその雷に打たれ、ついに宮殿に戻ることはなかった。

これが、「酷い仕打ちを受けても耐え抜く」という教えの実践である。


そして、菩薩は悲の心を学び、衆生が常に苦しみの渦中にあると深く考える。胎内にいる時、生命は母体に圧迫され、さまざまな苦痛を受ける。生まれる際には非常に狭い産道を通り、骨や肉が押し潰されるような苦しみを経験し、外気に触れる瞬間には、まるで剣や槍で突き刺されるような激しい痛みを感じる。そのため、仏陀は「生苦こそが最も重い苦しみである」と説かれた。この生苦に加え、老い、病、死、さらには多種多様な苦悩が加わる。こうした現実を前にして、修行者が衆生の苦しみをさらに重くするような行いをしてよいだろうか。それはまるで人の傷をさらにえぐるようなものである。

さらに、菩薩はこう考える。
「多くの人々は、無意識のうちに生死の流れに身を任せている。しかし私はそうではなく、この流れを遡り、その源を断ち切り、涅槃への道に入るべきだ。一般の人々は、損失を被れば不機嫌になり、利益を得れば喜び、困難に直面すれば恐れを抱く。しかし、菩薩はこのような反応に陥るべきではない。たとえ煩悩を完全に断ち切れていなくても、自らを制御し、忍耐を実践しなければならない。不当な扱いを受けても怒りを抱かず、尊敬され大切にされても過剰に喜ばず、困難に直面しても恐れることがあってはならない。そして、常に衆生のために大いなる慈悲の心を起こし、行動するべきである。」


そして、菩薩は心の中でこう知る。
「釈尊が説かれたように、『衆生は無始以来、五道を果てしなく輪廻している。』私は過去において彼らの親や兄弟であり、彼らもまた私の親や兄弟であった。そして未来においても、そのような関係が繰り返されるであろう。そのため、彼らに対して良からぬ心を抱くべきではない。」

さらに、菩薩はこう考える。
「将来、仏となる衆生は数多くいる。もし私が彼らに怒りを向けるなら、それは仏に対する怒りとなる。仏に怒りを向けることは、私自身のすべてを失う結果を招く。鳩や鳥でさえ、将来仏になると説かれているように、たとえ今は鳥の姿であっても、軽視するべきではない。」


そして、菩薩は知る。
あらゆる煩悩の中で怒りが最も重く、あらゆる悪い報いの中で、怒りの報いが最も苦しい。これほど重い罪は他にないのだ。


ある時、釈提婆那民しゃくたいばなみん(天主)が偈(詩)をもって仏に問うた。

何を殺せば安らぎが得られる?
何を殺せば後悔しない?
何が毒の根で、すべての善を滅ぼすのか?
何を殺せば賞賛され、何を殺せば憂いがなくなるのか?

仏陀は偈をもって答えられた。

怒りを殺せば安らぎが得られる、
怒りを殺せば後悔しない。
怒りは毒の根であり、
怒りはすべての善を滅ぼす。
怒りを殺せば諸仏に賞賛され、
怒りを殺せば憂いがなくなる。


菩薩はこう考える。
「私は今、慈悲を実践し、衆生に喜びをもたらしたい。しかし、すべての善を台無しにするものこそ怒りである。もし私が怒れば、自分自身でさえ喜びを失うだろう。それなのに、どうして衆生に喜びを与えることができるだろうか。」


そして、諸仏菩薩は大悲を根本とし、その悲の心から生まれる。
だが、怒りは悲の心を滅ぼす毒であり、特に菩薩にはふさわしくない。もし悲という根を壊してしまえば、どうして菩薩という名にふさわしいと言えるだろうか。菩薩の道がどこから始まるかを考えれば、忍辱こそがその第一歩である。

もし衆生が私に怒りを向けたとしても、菩薩はその中に功徳を見出すべきだ。たとえその人が私に害を及ぼしたとしても、彼には必ず他に素晴らしい徳や美点があるはずだ。それを思えば、怒りは不必要だと気づくだろう。

また、こう考えるべきだ。
「彼が私を罵ったり殴ったりするのは、まるで金細工師が金を鍛えるようなものだ。不純物は火の中で消え、純粋な金だけが残る。もし私に過去の因縁からの罪があるならば、今、それを償う好機なのだ。怒るのではなく、感謝し忍耐するべきだ。」


菩薩の慈悲の心は、衆生を赤子のように慈しむ。

この世の人々、すなわち閻浮提の人々(地球の人々)は、常に憂いが多く、喜びの日はわずかだ。もし私を罵ったり悪く言うことで、その人が少しでも気分爽快になるならば、これは得難い喜びを彼に与えることに他ならない。私は本来、衆生に喜びを与えることを望んでいるのだから、彼が好きなだけ罵ればよいではないか。

さらに、世の中の人々は常に様々な病に苦しめられ、死という敵の脅威に晒されている。このような苦しみの中にいる人々を目の当たりにして、善人を自負する私が、どうして慈しみと憐憫を示さず、逆にその苦しみを増すようなことができようか。

怒りを抱けば、その苦しみは相手に及ぶ前に、まず自らを傷つける。こうしたことを深く考えれば、怒りを捨て、忍辱を実践するべきだと気づくだろう。


怒りの罪深さを観察せよ。怒りは三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の中で最も重く、九十八使(微細な煩悩の分類)の中でも最もほどけにくい。また、諸々の心の病の中で最も治りにくい毒である。人は怒りに支配されると、善悪を見失い、罪福を顧みず、利益と害をわきまえない。怒りのために悪道に堕ちることさえ気に留めないのだ。善き教えを忘れ、名声を惜しまず、他人の苦しみも自らの労苦も考えずに、ただ相手を傷つけることに没頭してしまう。


怒りが招く恐るべき結果をよく知るべきだ。

かつて、浄行を修行し五通(五つの神通力)を得た仙人がいたが、怒りを抑えきれず、ついには国中の人々を殺してしまった。その姿はまるで旃陀羅せんだら(罪を犯す者や賤業に携わる者)のようであった。怒りに駆られる人は虎や狼のようで、人々は共にいることを避ける。また、それは悪性の瘡(できもの)のように再発しやすく、放置すればますます悪化する。怒りやすい者は毒蛇のようであり、他人に避けられる。怒りは積み重なることで、自覚のないうちに悪心を増大させ、ついには父母を殺し、君主を殺し、仏に悪意を向けるという最悪の罪に至ることもある。


かつて、拘睒彌国カウシャーンビーの比丘たちは些細なことで不和となり、怒りが増幅して二つのグループに分かれた。争いは三ヶ月間も続き、仏陀は大衆の中に来られ、比丘たちを諭された。
仏はこう言われた。
「比丘たちよ、争いをやめなさい。悪心を持ち続ける報いは重いのだ。涅槃を求め、世を捨てて善法を学ぶ者が、なぜ怒り争うのか?世俗の人々ならまだしも、出家した者が怒るのは、自ら毒を飲むようなものだ。それは冷たい雲の中から火が現れて、自身を焼き尽くすような愚かな行いだ。」

だが、比丘たちは答えた。
「法王である仏よ、少し黙っていてください!私たちはひどい目に遭わされました。やり返さないわけにはいきません。」

仏は彼らが導きに従わないと悟られると、僧衆の中で虚空を歩いて去り、林の中で寂然三昧に入られた。このように、怒りが支配すると仏の教えさえ耳に入らなくなるのだ。

怒りの害を深く観察すれば、怒りを捨て、忍辱を実践すべき理由が明らかになる。忍辱を身につけることで慈悲の心が育まれ、慈悲が得られれば、仏道への道が開かれるのだ。怒りを取り除き、忍辱を育てることこそ、修行者にとっての要である。


ある者は言う。「忍辱は素晴らしいが、小人に軽蔑され、怖がられていると見られるから、全てを忍耐すべきではない。」
これに対する答えは明快である。
「小人に軽蔑されることを理由に忍耐しないなら、その結果として忍耐しない罪はさらに重くなる。」

忍耐しない者は賢人や聖人に軽蔑されるが、忍耐する者は愚かな者に軽蔑される。この二つを比べるならば、無知な者に軽蔑されるほうが遥かに良い。愚かな者は本来軽蔑すべきでないものを軽蔑するが、賢人や聖人は本当に軽蔑すべきものだけを軽蔑するからである。したがって、忍辱を修行すべきである。


忍辱を実践する者は、特別な布施や禅定の修行をしなくても、優れた功徳を積むことができる。忍辱によって心が柔軟になり、その人は天界や人間に生まれ、さらには仏道を得る道が開かれる。忍耐することは、単なる消極的な忍びではなく、心を広げ、柔らかくし、善を積む積極的な行為なのである。

さらに菩薩はこう考える。
「たとえ私を苦しめ、侮辱し、財を奪い、軽蔑し、罵り、拘束する者がいても、耐え忍ばなければならない。もし怒りを爆発させれば、私は地獄に落ち、鉄壁に囲まれ、燃え盛る地を歩き、言い尽くせない苦しみを受けることになる。無知な小人に蔑まれることより、この報いを受けるほうが遥かに重い。」
そのため、報復の快楽に溺れるのではなく、未来のさらなる苦しみを回避するために忍耐を選ぶべきである。


菩薩は衆生を慈しみ、彼らを心の病に苦しむ患者のように見る。怒りを病と捉え、治療するべき対象と考える。たとえ衆生が怒りによって罵り、暴力を振るうことがあっても、菩薩はその病に巻き込まれることなく、むしろ彼らを助けるために最善を尽くす。医師が病人を治療する際、患者が狂病で刀を抜き罵っても、医師はそれを病のせいだと理解して治療に専念する。菩薩もまた、怒りを煩悩という病と見なし、様々な方法でそれを癒そうと努める。

菩薩の心は、慈父が子を思うようなものだ。子どもが幼く、何も知らず、時に罵ったり暴力を振るったりすることがあっても、父親はその無知を憐れみ、さらに愛情を注ぐ。菩薩も同じく、衆生の無知を理解し、怒りを受けても憎むことなく、慈悲の心で応えるのだ。


そして、菩薩はこう考える。「もし衆生が私に怒りや不利益を加えてきたならば、それを忍耐すべきである。もし耐えられなければ、今世では後悔し、後には地獄に堕ち、多くの苦しみを受けることになる。たとえ畜生に生まれ変われば、怒りの業によって毒龍、悪蛇、ライオン、虎、狼などの猛獣となるだろう。また、餓鬼に生まれれば、口から火が出る餓鬼として苦しむだろう。火傷の痛みがその瞬間よりも後になってさらに増すように、怒りの報いもまた後になるほど深刻になるのだ。」

また、菩薩はこう考える。「私は菩薩であり、衆生を利益することを目的としている。もし忍耐できなければ、菩薩としての資格を失い、悪人となってしまう。」

さらに、菩薩はこう考える。「世の中には、衆生と非衆生の二種類がある。私は衆生を利益するために成仏を志した。山、石、木、寒さ、暑さ、水、雨といった非衆生が私を害する時、ただ避けることだけを考え、初めから怒ることはない。今、私に危害を加えたのはまさに衆生、すなわち私が利益を与えたいと願ってきた相手そのものだ。それならば、その害を受け入れるべきであって、なぜ怒る必要があるのだろうか?」


さらに、菩薩は、過去の因縁によって仮に「人」と名づけられているだけで、実体としての「人」は存在しないことを知っている。「怒りを向ける対象とは何なのだろうか?」と。骨、血、皮、肉があるだけで、それはまるでレンガを積み重ねたようなものにすぎない。また、操り人形のように仕掛けによって動き、行き来しているにすぎない。このような事実を正しく理解していれば、怒るはずがない。もし私が怒るなら、それは愚かであり、自ら罰を受けることになる。そのため、忍耐すべきなのだ。

また、菩薩は次のように考える。「過去に数え切れないほどの仏がおられたが、彼らが菩薩の道を歩む時、皆まず生忍(一切の衆生を空であると見て、邪見に陥らない境地)を修め、その後に法忍(一切が空であり、実相であるという真理に心を安じる境地)を修行された。私も今、仏道を学ぼうとしているのだから、諸仏の行を見習うべきだ。魔界の法のように怒りを起こしてはならない。」

以上の理由から、忍辱を実践すべきである。