難陀の出家 | 「大宝積経 仏說入胎藏会」 1
こう私は聞いた:
あるとき、世尊は、劫比羅城の多根樹園におり、数えきれないほどの比丘(僧侶)と共に居られた。そのとき、世尊には難陀という名の弟がいた。彼の体は金色に輝き、三十種の特相を具え、身長は仏陀より指四本分だけ低かった。難陀には孫陀羅という名の妻がいた。彼女は端正な容姿を持ち、この世では稀有な存在で、輝きが抜きん出ており、人々が見て喜ぶほどの美しさだった。難陀はこの妻に深く執着し、片時も離れられず、愛欲の情に溺れ、命が尽きるまでその愛を離すまいとした。
世尊は、難陀を導く時機が来たことを知り、朝早くに衣を身にまとい、鉢を持ち、尊者阿難を侍者として連れ、町に托鉢に入られた。そして難陀の家の門前に至り、そこに立って、大いなる慈悲の力で金色の光を放ち、その光は難陀の家中を照らし、すべてが金色に染まった。そのとき、難陀は「この光が突然現れたのは、きっと如来がいらしたに違いない」と思い、家の者に様子を見に行かせた。家の者が世尊の来訪を確認すると、急いで戻り、難陀に「世尊が門前にいらっしゃいます」と告げた。
難陀はこれを聞き、すぐに外へ出て世尊を迎え、礼拝しようとしたが、妻の孫陀羅は「もし彼を外に出せば、世尊はきっと彼を出家させてしまうに違いない」と考え、難陀の衣をつかんで外へ出させないようにした。難陀は「少しの間だけ行かせてくれ。世尊に礼拝をしたら、すぐに戻ってくる」と言った。すると孫陀羅は、「では、約束をしよう。それから行ってもよい」と言い、額に臙脂をつけ、こう告げた。「この点が乾く前に戻ってこないと、罰金として五百銭を支払ってもらうよ」。難陀は「わかった」と答え、門前に急ぎ、世尊の足元に礼拝した。そして、如来の鉢を受け取り、家の中へ戻り、美味しい食物を鉢に満たして持ち、門前まで再び世尊のもとへ運んだところ、世尊は踵を返してそのまま去って行った。そこで、鉢をアーナンダに渡ろうとしたが、世尊はアーナンダが鉢を受け取ることを神通力を現して制止された。威厳に満ちた世尊のことだから、鉢を受け取ってくれるようにと後ろから声をかけて止めるわけにもいかず、仕方なく再度アーナンダに鉢を手渡しようとした。アーナンダは難陀に尋ねた。「その鉢をどなたから受け取ったのですか?」難陀は答えた。「仏様から。」アーナンダは言った。「それなら仏様ご本人にお返しください。」難陀は答えた。「俺は今、それが出来ないんだ。」そう言って黙り込んで、あとに付いて行った。
世尊が寺に戻り、手足を洗い席についた後、難陀は鉢を持って世尊に供養した。世尊は食事を終えると難陀に尋ねた。「難陀よ、君は私の残り物を食べるかい?」難陀は答えた。「いただきます。」すると仏はその鉢を差し出した。「君は出家できるかい?」難陀は答えた。「はい、出家します。」というのは、世尊が菩薩として修行を積んでいた時、父母や師長、尊敬すべき人々からの教えに対して一度も逆らうことがなかったので、(その果報として)現在、世尊の言葉を逆らう者も誰一人いないのだ。
そこで世尊はアーナンダに命じられた。「君が難陀の髪を剃りなさい。」アーナンダは答えた。「はい。」すぐに髪を剃る者を探して連れてきた。
難陀は髪を剃る者を見て言った。「お前は知らないのか?私は間もなく転輪聖王となる者だ。もし勝手に私の髪を剃るようなことをすれば、お前の腕を切り落とすぞ。」これを聞いた者は恐れおののき、剃刀を包み片付けると、その場を立ち去ろうとした。
その時、アーナンダが世尊のもとへ行き、これを報告した。世尊は自ら難陀のところに行き、こう尋ねた。「難陀よ、君は出家しないのか?」難陀は答えた。「はい、出家します。」その時、世尊は自ら水の入った瓶を持ち、難陀の頭に注ぎ、剃髪を行わせた。
その後、難陀はこう考えた。「私は今、世尊を尊敬しているがゆえに出家したが、昼間だけ出家して夜には家へ戻ろう。」こうして、夜になると帰る道を探し始めた。するとその時、世尊は難陀の行く道に大きな穴を化現させた。難陀はそれを見て思った。「この穴を越えて孫陀羅のもとへ帰るのは、もはや不可能だ。彼女に会えない辛さでこのまま死ぬかもしれない。もし明日の朝に余命があればその時また進もう。」こうして難陀は孫陀羅を思い続け、一晩中苦しんだ。
その時、世尊は難陀の心中を知り、アーナンダに言った。「今すぐ難陀に伝えなさい。彼を『知事人(寺院の管理役)』に任命する、と。」アーナンダはすぐに難陀のもとへ行き、「世尊が兄貴を『知事人』に任命されました」と伝えた。
難陀は尋ねた。
「『知事人』とは何を意味し、何をする者なのですか?」
アーナンダは答えた。
「寺院内の諸事を管理し整える役目です。」
さらに難陀が尋ねた。
「具体的にはどのように行えばよいのか?」
アーナンダは次のように説明した。
「尊者よ、知事人の務めとしては、僧たちが托鉢に出ている間、寺院の敷地を掃き清め、新しい牛糞を使って順に塗り清めてください。また、寺院の財物が失われないように注意して守ってください。必要なことがあれば僧たちに報告し、香花がある場合は僧たちに分け与えてください。夜間は門を閉じ、朝に開けてください。大小の行道場所は常に清掃し、寺院内で損壊している箇所があれば修理してください。」
これを聞いた難陀は答えた。
「尊いお方よ、世尊の仰せの通り、すべて実行いたします。」
その頃、諸々の比丘たちは、日中衣鉢を携え、劫比羅城へ托鉢に向かった。その時、難陀は寺に人影がないのを見て、こう考えた。「寺の掃除が終わったら、すぐに家に帰ろう。」こうして掃除を始めた。
世尊はこれを観察し、神通力を用いて、難陀が掃除したきれいな場所に再び糞穢を満たした。難陀はさらにこう考えた。「糞穢を片付け終えたら、帰ると言おう。」しかし、箒を置いて糞穢を収めても、片付けは尽きなかった。次に彼はこう思った。「寺の扉を閉めて出発しよう。」すると、世尊は一部屋の扉を閉じると、他の扉が開くようにさせた。
難陀はますます苛立ち、次のように考えた。「たとえ寺が盗賊に荒らされたとしても、それが何だというのか?私は王となった後、ここよりも立派な寺を百千建てることができる。今すぐ帰宅するべきだ。ただし、大通りを行けば世尊に見つかる恐れがある。」そう考え、小道を通ろうとした。
世尊は難陀の心を知り、小道に現れた。難陀は遠くに世尊の姿を認めると、会いたくない一心で道端の低い木陰に身を隠した。すると、世尊はその木に枝を持ち上げさせ、難陀の姿を露わにした。
世尊は難陀に尋ねられた。「君はどこから来たのかい?さあ、私について来なさい。」難陀は恥じ入り、世尊に従った。世尊はこう思われた。「この者は妻に対して深く執着している。これを断ち切らせるべきだ。」そこで彼を導き、劫比羅城を出発し、室羅伐に向かった。そして、到着後、毘舍佉によって建てられた鹿子母園に留まられた。
仏は、難陀が愚かさと迷いに囚われ、なおも妻を思い愛情を断ち切れないことを察し、方便を用いてその心を静めるべきだと考えられた。そしてこうおっしゃった。
「君はこれまで香醉山を見たことがある?」
難陀は答えた。「いいえ、見たことはありません。」
仏は言われた。「では私の衣の端を掴むがよい。」難陀は衣を掴んだ。その時、世尊は鵝王(白鳥の王)のように虚空に昇り、香醉山に到達された。そして難陀を連れて周囲を見回す中で、果樹の下にいる片目を失った雌の猿を見せた。その猿は顔を上げて世尊を見つめた。
仏は難陀に尋ねられた。「君はこの片目の猿を見た?」
難陀は答えた。「見ました。」
仏は言われた。「君の考えでは、この片目の猿と孫陀羅では、どちらが優れていると思う?」
難陀は答えた。「孫陀羅は釈迦族の者で、まるで天女のようです。その容姿は比類なく、世に並ぶ者はありません。この猿と比べれば、千億分の一にも及びません。」
仏は言われた。「君は天界の宮殿を見たことがある?」
難陀は答えた。「いいえ、見たことはありません。」
仏は言われた。「ではさらに衣の端を掴むがよい。」
難陀は再び衣を掴んだ。そして仏は再び鵝王のように虚空を昇り、三十三天に到達された。
仏は難陀に言われた。「君は天界の優れた場所を観察してみるがよい。」
難陀は歓喜園、婇身園、麁身園、交合園、圓生樹、善法堂といった場所を訪れ、それらの楽園や果樹園、浴場、遊び場などを観察した。それらはみなこの上なく素晴らしく、至福の楽しみに満ちていた。
その後、善見城に入ると、さまざまな鼓楽や琴の音、微妙な旋律が響き、建物は広々として寝台や幕が美しく整っていた。そこでは至る所で天女たちが楽しく戯れていた。
難陀は観察を進める中で、ある場所では天女だけがいて、天子がいないのを見た。彼は天女に尋ねた。
「なぜ他の場所では男女が共に楽しんでいるのに、あなた方は女性だけで、男性がいないのですか?」
天女は答えた。「世尊には難陀という名の弟がおり、彼は仏に帰依して出家し、梵行(欲を離れた修行)を専念しています。命を終えた後、彼はここに生まれるので、私たちは彼を待っているのです。」
難陀はこれを聞くと大いに喜び、踊るように歓喜して仏のもとに急いで戻った。世尊は尋ねられた。
「君は天界の素晴らしいものを見たかい?」
難陀は答えた。「はい、見ました。」
仏は言われた。「何を見たのだ?」
難陀は自分の見たことを詳細に報告した。
仏は尋ねられた。「天女たちを見た?」
難陀は答えた。「はい、見ました。」
仏は言われた。「その天女たちと孫陀羅では、どちらがより優れているか?」
難陀は答えた。「世尊、孫陀羅を天女たちと比べれば、まるで香醉山の片目の猿を孫陀羅と比べるようなものです。百千万倍にも及びません。」
仏は言われた。「清らかな梵行を行う者には、このような利益があるのだ。君は今後も梵行をしっかりと修め、この天界に生まれてその快楽を享受するがよい。」
難陀はこれを聞いて喜び、黙って比丘たちの間に留まった。
その時、世尊は難陀とともに天界を離れ、逝多林(ジェータバナ・祇園精舎)へ戻られた。その時、難陀は天界を恋しく思い、天宮を目指して梵行を修め続けていた。仏はその心を知り、アーナンダに命じられた。
「君はこれから諸比丘に伝えなさい。誰も難陀と同じ座に座ってはならず、同じ場所で経行してはならない。同じ竿に衣を掛けてもならず、同じ場所に鉢や水瓶を置いてもならない。また、同じ場所で経典を読誦してはならない。」
アーナンダは世尊の言葉を比丘たちに伝え、比丘たちはその教えをすべて遵守した。
その時、難陀は自分が他の人々と同じ場所に集まれないことを知り、大いに恥じ入った。その後ある時、アーナンダが他の比丘たちと供侍堂(奉仕堂)で衣を縫い修繕しているのを見た難陀は、こう考えた。
「これらの比丘たちは皆、私を疎んじて同じ場所に集まろうとしない。このアーナンダは私の弟である。どうして私を嫌うというのだろう?」
そう思った難陀はアーナンダの隣に座りに行った。しかし、その時アーナンダはすぐに立ち上がり、その場を避けた。
難陀は言った。
「アーナンダ!他の比丘たちが私を拒むのは仕方がないとしても、お前は俺の弟ではないか。なぜ俺をも避けるのか?」
アーナンダは答えた。
「確かにそうです。しかし、兄貴と私は異なる道を行く者です。だから避けるのです。」
難陀は尋ねた。
「俺の道って何なのか?そしてお前の道って何なのか?」
アーナンダは答えた。
「兄貴は天界へ生まれることを楽しみにして梵行を修めています。しかし、私は涅槃を求め、欲望の染みによる束縛を断とうとしているのです。」
この言葉を聞いた難陀は、さらに深い悲しみと苦悩を抱くようになった。
その時、世尊は難陀の心の念を知り、彼に言われた。
「君はこれまで地獄を見たことがあるかい?」
難陀は答えた。
「見たことはありません。」
仏は言われた。
「それなら、私の衣の端を掴むがよい。」
難陀は即座に衣を掴み、仏は彼を連れて地獄へ向かわれた。その時、世尊は一方に立たれ、難陀に言われた。
「君はこれから地獄を観察してきなさい。」
難陀は進み、まず灰河を見、その次に剣の生えた木々、糞便の池、火の河を見て回った。さらに奥へ進むと、様々な苦しみを受ける衆生を目にした。
ある者は、鉗で舌を引き抜かれ、歯を捩じられ、目を抉られていた。ある者は鋸で体を裂かれたり、斧で手足を切り落とされたりしていた。ある者は尖った鉄器で体を刺され、棒で殴られ、矛で刺されていた。ある者は鉄鎚で粉々に砕かれたり、溶けた銅を口から流し込まれていたり、刀山を登らされたり、剣の生えた木々をよじ登らされたりしていた。また、碓や石臼で体を挽かれ、赤熱した銅柱や鉄床の上で極度の苦しみを味わっている者もいた。さらに、猛火が沸き立つ鉄鍋の中で煮られている衆生も目にした。
そうした苦痛の光景を見て回るうち、難陀は一つの鉄鍋だけが中に衆生がいないまま沸き立っているのを見つけ、不安に駆られて獄卒に尋ねた。
「なぜ他の鉄鍋はすべて衆生を煮ているのに、この鍋だけは空のまま煮えたぎっているのですか?」
獄卒は答えた。
「仏の弟である難陀が、ただ天界での快楽を求め、梵行を修めています。彼は天上で一時的に快楽を得た後、この鍋に入る定めです。そのため、私は今この鍋を熱して待っているのです。」
難陀はこの言葉を聞いて、大いなる恐怖に襲われ、全身の毛が逆立ち、白汗を流した。そして心の中でこう思った。
「もしこの者たちが私が難陀であると知ったら、この沸き立つ鍋の中に放り込まれるだろう。」
そう考えた彼は急いで世尊のもとに走り戻った。仏は言われた。
「君は地獄を見たか?」
難陀は悲しみ泣きながら、涙を雨のように流し、声にならないほどの細い声で答えた。
「見ました。」
仏は言われた。
「君は何を見たのか?」
難陀は見たことすべてを世尊に報告した。仏は難陀に言われた。
「人間界あるいは天界を求めて梵行を修めることには、このような過ちがあるのだ。涅槃を求めるべきだ。梵行を修めるのはよいが、天界の快楽を楽しむために修行してはならない。それは無益な苦しみを招くことになる。」
難陀はこの言葉を聞いて恥じ入り、言葉もなく沈黙した。
その時、世尊は彼の心の中を知り、地獄を後にして逝多林へ戻られた。そして難陀および諸比丘にこう言われた。
「内に三つの汚れがある。それは婬欲、瞋恚(怒り)、愚癡(無知)である。これらは捨てるべきものであり、遠ざけるべきものである。この教えを修学しなさい。」
当時、世尊は逝多林に滞在しておられていたが、しばらくの後、縁ある人々を教化するため、弟子たちを伴い占波国へ向かい、そこで揭伽池のほとりに留まられた。難陀と五百人の比丘たちも仏陀に従い、仏のもとへ集まってきた。一同が座を整えると、仏陀は難陀に向かい次のように説かれた。
「私が説くこの教えは、始め、中程、そして終わりのいずれにおいても優れたものであり、その内容は清らかで完成された修行の道である。これは『入母胎経』と呼ばれるものだ。しっかりと耳を傾け、心を集中し、よく考えながら聞きなさい。今からこれを説こう。」
難陀は答えた。
「世尊よ、ぜひお話をお聞かせください。」
(つゞく)