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苦こそが人生である | 「大宝積経 仏說入胎藏会」 4
その時、世尊は再び難陀に説かれた。
「難陀よ、君は今、胎内の苦しみや生まれる時の苦しみを理解したであろう。胎に宿り、生まれてくるすべての者は計り知れない苦しみを受けるのだ。生まれたばかりの赤子は、男であれ女であれ、人の手に抱かれたり、布や衣類の上に置かれたり、日向や日陰に移されたり、揺りかごや床、座布団の上に寝かされたりする。そのどれもが、赤子にとっては耐え難い痛みを伴う。
難陀よ、それは、皮を剥がれた牛が壁のそばに立てば壁虫に食われ、木や草の近くではそこに住む虫に食われ、何もない場所にいてもさまざまな虫に食いつかれるようなものだ。その痛みは言葉では言い尽くせない。また、生まれたばかりの赤子が温水で体を洗われるときに感じる苦しみは、癩病にかかった者がただれた皮膚から膿や血が流れ出るときに杖で叩かれる苦痛にも似ている。さらに、人間は生後、母親の血垢を飲むことで成長するが、この『血垢』とは、聖なる教えにおいては乳汁のことなのだ。
難陀よ、このように、人生には数多くの耐え難い苦しみがあり、楽しむべきものなど一つも存在しない。もし物事を深く観察するならば、誰がこの苦しみに満ちた生死の海に愛着を抱き、果てしない輪廻に執着し続けるだろうか?」
「難陀よ、生まれて七日が経つと、この身体の中にはすでに八万種類もの虫が住み着き、それぞれが縦横に動き回りながら体を食い荒らすのだ。例えば、髪を食する虫は『食髮』という名で、髪の根元に住み着き、髪を餌としている。また、頭を食う虫には『伏藏』や『麁頭』と呼ばれるものがあり、頭部を噛みながら生きている。目を食する虫『繞眼』は目に住み、そこをむさぼり食らう。さらに、脳には『驅逐』『奔走』『屋宅』『圓滿』という四種類の虫が住み着き、脳を餌としている。耳には『稻葉』という虫が、鼻には『藏口』という虫がそれぞれ住み、耳や鼻を食う。唇には『遙擲』や『遍擲』という虫が、歯には『蜜葉』という虫が住み、歯と唇を食い続けている。歯根には『木口』、舌には『針口』、舌の根元には『利口』という虫が住み、それぞれ対応する部分を噛みながら生きている。口腔の上部には『手圓』という虫が住み着き、そこを食う。また、手足や腕、脊椎、筋肉、脂肪、腸など、体の隅々に至るまで諸々の虫が住み、それぞれの部位を食いながら生命を維持している(詳細を省く)。難陀よ、この身というものは、実に嫌うべきものであり、憂うべきものである。そこには常に八万の虫が住みつき、昼夜を問わず噛み食らっている。そのために体は熱に苦しめられ、痩せ衰え、疲労困憊し、飢えと渇きに苛まれるのだ。さらに、心もまたさまざまな苦悩と病いを抱え、それらを取り除くことができる良医は誰一人いない。
難陀よ、苦しみがこれほど満ちている生死という大海に、なぜ執着し、諦めきれないのだろうか?
そのほかに、さまざまな神々や霊的な力によって引き起こされる病いもある。いわゆる天神や龍神、八部衆、鬼神や羯吒布単那に支配されることもあれば、動物や鳥類に由来する霊的存在に取り憑かれることもある。また、日月や星辰の影響を受けることもある。これらの鬼神や霊的存在は、言い尽くせないほど多くの病いをもたらし、人々の身心を苛んでいる。」
仏は難陀に説かれた。
「母胎に入って極度の辛さを経験しての生を、いったい誰が受けようとするのだろうか?このようにして生まれ、成長し、母乳という名の血やさまざまな食物を摂取して育つ中で、楽しいという幻想を抱きつつ、徐々に大人へと成長していく。たとえ身体が健康で安楽であり、衣食が満たされ、百歳まで寿命を全うできたとしても、睡眠によって半減する。幼児期、少年期を経て成長する間にも、憂いや悲しみ、災厄、そしてさまざまな病気に苛まれる。苦しみは語り尽くせない。
人はその身に忍び難い苦痛があるとき、生きることを望まず、むしろ死を求めるようになる。この身体には苦しみが多く、楽しみが少ない。たとえ一時的に存続しても、最終的には必ず滅びる運命にある。
難陀よ、生まれたものはみな死を迎える。永遠に存在するものなどない。仮に医薬や飲食の滋養によって命を延ばすことができても、やがて死という名の王者に命を奪われ、無に葬られることは免れない。そのため、生を楽しむべきではなく、来世のための糧となるものを、怠ることなく積むべきである。放逸に流れず、精進して梵行(輪廻からの解脱を目指した清浄な行い)に努めなさい。諸々の利益をもたらす行い、法に基づく行い、功徳ある行い、純粋で善なる行いを常に喜んで修めるべきである。そして、自らの善悪を常に観察し、それを心に留め、後に深い後悔を招くことのないように注意しなさい。愛着するものはすべて、最終的には手放さなければならない。そして、善悪の業だけが後の世における道筋を決定するのだ。」
「難陀よ、寿命が百年と仮定するならば、人生には十の段階がある。第一は嬰児期であり、この時期には襁褓(おむつ)に包まれ寝て過ごす。第二は童子期で、無邪気に遊び戯れる時期である。第三は少年期で、さまざまな欲を楽しむ時期だ。第四は壮年期で、勇気にあふれ、力がみなぎる時期である。第五は盛年期で、知恵を持ち、議論や話し合いを楽しむことができる。第六は成熟期で、深く思慮し、巧みに計画を立てることができる。第七は衰退期で、規律や方法をよく理解するが、力は減少していく。第八は老年期で、あらゆることが衰え、活力を失う。第九は極老期で、もはや何もできなくなる。そして第十は百歳を迎える死の時期である。難陀よ、大まかに区分すると、人生には三万六千の昼夜がある。日に二度食事を取るとすれば、生涯で七万二千度の食事をする計算になる。もっとも、何らかの理由で食事を取らないこともあるだろうし、母乳を飲む期間も含まれている。難陀よ、人間の寿命が百年だとして、年月や昼夜、食事の数について私は今説明した。これを聞き、厭離の心を起こすべきだ。」
「難陀よ、このようにして人は成長し、やがて成人に至るが、体中に多くの病が宿る。例えば、頭、目、耳、鼻、舌、歯、咽喉、胸、腹、手足など、あらゆる部位が病苦の原因となる。また、疥癩(皮膚病)、癲狂(精神疾患)、水腫(むくみ)、咳嗽(咳)、さらには関節痛など、さまざまな病が人を悩ませる。そのほかに、百一種の風病、百一種の黄病、百一種の痰癊病、これらが混じり合った百一種の総集病があり、合わせて四百四種の病が体内から生じる。
難陀よ、無数の病が宿るこの身は、まるで膿から出来た矢のように、片時も止まることなく生滅変化している。この身は無常であり、苦であり、空であり、無我である。常に死と隣り合わせで、壊れてゆく運命にあるため、保つこともできないし、愛すべきものでもないのだ。」
「難陀よ、そのほかに次のような生による苦しみがある。例えば、手足、目、耳、鼻、舌、頭など身体の一部を切断される苦しみ、さらには獄に囚われ、枷や鎖、杻械、鞭打ちや拷問を受ける痛みがある。また、飢えや渇き、寒さや暑さ、雨や雪、蚊や虻、蟻に刺される苦しみ、さらには暴風や砂塵、猛獣やその他の危害を与えるものに苦しむこともある。
これらの種々を語り尽くせない。有情(心を有する者)は、このような厳しい苦しみの中にあっても、なおそれを愛し、楽しみとして深く沈み込んでいる。すべての欲望は苦を生み出す根源であり、人々はそれを手放すどころか、むしろさらに追い求める。そのため、昼夜を問わず身心は追い立てられ、悩まされ続ける。内心では欲望の炎が燃え盛り、片時の休息も得られないのだ。」
「このように、生の苦しみ(生苦)、老いの苦しみ(老苦)、病の苦しみ(病苦)、死の苦しみ(死苦)、愛する者と別れる苦しみ(愛別離苦)、憎む者と会わなければならない苦しみ(怨憎会苦)、求めても得られない苦しみ(求不得苦)、そして五蘊(色・受・想・行・識)による苦しみ(五蘊盛苦)に絶えず苛まれている。さらに、行(歩く)・立(立つ)・坐(座る)・臥(横たわる)の四つの威儀(起居動作)においても、苦しみから逃れることはできない。たとえば、長時間歩き続け、立つことも座ることも横たわることもできなければ苦しみを受け、安楽は得られない。同様に、長時間立ち続け、座り続けたりすれば、それぞれの姿勢が苦痛をもたらし、横たわり続ける場合もまた同様である。難陀よ、これらのすべては『苦を捨ててさらに苦を求める』ことに他ならない。結果として、ただ苦しみが生起し、苦しみが消滅するのみである。そして、この生滅により、『行』(五蘊の「行」蘊)が次々と起こり続けるのだ。如来はこの真理を了知しているため、有情の生死に関する教えを説いた。諸行は無常であり、真に究極のものではない。それは変化し、壊れていくものであり、保ち続けることは不可能である。ゆえに、知足(足るを知る心)を求め、深く厭離の心を起こし、解脱を勤勉に求めなさい。」
「難陀よ、善趣に生まれる有情ですら、生まれる場所の不浄さや、苦しみの甚だしさはこの通りである。その虚妄や欺瞞(真実が覆い隠されている)の数々を、語り尽くすことは到底できない。ましてや三悪趣、すなわち餓鬼、傍生(動物界)、地獄において、有情が受ける耐え難い苦しみを余すところなく語り尽くすことなど、不可能であると言えよう。」
(つゞく)