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ヨーロッパの近代建築⑬ル・コルビュジェⅠ-地域のお宝さがし-134

ル・コルビュジェ

図1 ル・コルビュジェ

経歴
●建築以前●
 ル・コルビュジェ(1887[明治20]~1965[昭和40]年)は、スイス国境に近いラ・ショー・ド・フォンで、時計の文字板職人の父、ピアノ教師の母の次男として生まれました(注1)。時計職人になるため、1902年に地元の美術学校へ入学し、在学中に文字盤の装飾彫刻に関する国際的コンクールに入賞しますが、弱視のため時計職人から建築へと方向を転換し(注2)、在学中の1906年に地元の宝石商の住宅(ファレ邸)を設計しています(注3)。

注1)ウィキペディア「ル・コルビュジェ」。本名:シャルル・エドゥアール・           ジャンヌレ。コルビュジェに関する記述で断らない場合は、同書によ             る。図1は同書より転載。
注2)東英紀『荷風とル・コルビュジェのパリ』(新潮社、1998年)。
注3)美術学校の入学年・ファレ邸の設計年は、『ル・コルビュジェ』(エク           スナレッジ、2002年)による。

 ●建築をめざして(修行期)●
ペレ事務所 1907年にイタリア各地を旅行したコルビュジェは、1908年、パリのオーギュスト・ペレの事務所で働きます。当時ペレは34歳、自身が設計したフランクリン街のアパート(第131回参照)で、弟のギュスターブと事務所を開設していました。コルビュジェが持参した建築のスケッチをペレが気に入り、雇われたそうです(前掲注2)。ここで、鉄筋コンクリート造に関心をもったことが、後に提唱される「ドミノシステム」(1914年)や「近代建築の五原則」(1927年)に発展します(注4)。

ベーレンス事務所 1910年、ドイツ工作連盟に接触し、同年、ベルリンのペーター・ベーレンスの事務所で働きます(前掲注3)。当時事務所には、グロピウスとミースが働いており、3人が出会ったという話があるようですが、グロピウスは、コルビュジェが勤務する前に独立しており、ミースは、ベーレンス事務所へ来た際に、ドレスデンへ行くコルビュジェと出会った(注5)、というのが真相のようです。

東方への旅 コルビュジェは、1911年5月から数ヶ月、東方(東ヨーロッパ)へ旅行しますので、ベーレンス事務所でミースが出会ったのは、コルビュジェが東方に出かけるところで、その最初の訪問地をミースに告げたのでしょう(前掲注5)。とすると、ミースとコルビュジェの出会いは1911年5月頃と推察されます。この旅行は、コルビュジェにとって大きな成果があったようです。

注4)「ドミノシステム」の年代は、『新訂建築学大系6近代建築史』(彰国             社、1970年])。図2は同書より転載。「近代建築の五原則」の年代                 は、「近代建築の五原則」(http://touron.aij.or.jp/2016/03/1056)に              よる。
注5)S・V・モース『ル・コルビュジェの生涯』(彰国社、1999年)。

●ドミノシステムの提唱●
 東方への旅を終えたコルビュジェは、故郷(ラ・ショー・ド・フォン)へ戻り、1912年、母校の美術学校で新たに開設されるコースの教員になり、また設計事務所も開設しています(注6)。この時期、第1次世界大戦(1914~1918年)が始まり、コルビュジェは、戦後の復興を視野におき、建築の大量生産の手法(「ドミノシステム」)を開発します(図2、注7)。ドミノとは、フランス語の家(ドム)と新しい(イノ)を組み合わせた、コルビュジェの造語です(注8)。 

図2 ドミノシステム

 「ドミノシステム」は、鉄筋コンクリート造による6本の柱、3枚の床(スラブ)、階段で構成される骨組により、住宅の建設を規格化する生産方式です。様式建築にみられる重厚な壁を取り払ったため、窓を大きく設けたり、外壁面全面をガラス張りにすることもでき、開放的な平面、自由な立面の実現が可能となります。

 こうみると、近代以前の建築が壁に支配されており、近代建築が壁からの解放を目指していたことが窺われます。もっとも、図2をみるかぎり、柱上部の床に替えて梁を架けると、わが国の軸組構法に似ていると思われます。高温多湿なわが国の気候は、開放的な建築を発達させましたが、結果として近代建築の理念に沿っていたということでしょうか。

 注6)前掲注3)『ル・コルビュジェ』。一方、前掲注2)『荷風とル・コルビ            ュジェのパリ』では、新コースは開設されず、コルビュジェも学校を            去ったとある。
注7)『新訂近代建築学大系6 近代建築史』(彰国社、1970年)より転載。
注8)松井産業(株) https://www.matsui-sangyou.co.jp/archives/10244

活動
 コルビュジェは、大戦末期(1917年)にパリに戻り(前掲注3)、翌18年5月、ペレの紹介で画家兼美術評論家のアメデ・オザンファンと出会います。2人は、大戦中にシャンゼリゼ大通りに陳列されたドイツ軍の大砲を何度も見に行き、機能的に美しい工業製品を賛美しています(前掲注2)。その時期は、コルビュジェとオザンファンが出会った1918年5月以降、終戦の11月までと思われます。

●レスプリ・ヌーボー(新精神)●
 1920年、オザンファン、コルビュジェらは雑誌『レスプリ・ヌーボー』を創刊し、自分たちの思想や作品を示します。コルビュジェは、1922年にはオザンファンのアトリエを設計します(図3)。螺旋(らせん)階段、横長や大きなガラス窓が印象的な作品です。1925年には、装飾芸術博覧会(アール・デコ博)にレスプリ・ヌーボー館を設計します(前掲注4)。

図3 アトリエ・オザンファン

●近代建築の五原則の提唱●
 アール・デコ博の後、近代建築の主流は、合理的で機能的な建築を目指すインターナショナル・スタイル(モダニズム)になります。その中心のバウハウス(デッソウ校)の建築家たちは、コルビュジェも自分たちの同志だと考えたようで(前掲注2)、コルビュジェの立場が窺われます。

 そんな中、従来の石造建築と対比させた新しい造形理論(「近代建築の五原則」)、すなわち、①ピロティ、②屋上庭園、③自由な平面、④連続窓、⑤自由なファサードが提示されますが(図4、注9)、その後、④の連続窓が⑤の自由なファサードに吸収され、①ピロティ、②独立骨組、③自由な平面、④自由なファサード、⑤屋上庭園が慣用されるようになります(前掲注4)。この理論は、「ドミノシステム」によって実現が可能なことが窺えます。

図4 近代建築の五原則

注9)図4は、『建築史』(市ヶ谷出版、2002年)より転載・加工。図5・6は             同書より転載。

●設計競技(コンペ)●
 コルビュジェはコンペにも積極的に挑み、1927年にジュネーブの国際連盟本部コンペに1等入選しますが、実現されませんでした(図5)。1928年にはセントロ・ソユース(協同組合のモスクワ本部)のコンペで入賞し(図6)、1935年に実現します。

 1928年にコルビュジェの事務所にいた前川國男は、その実施図面作成のためにロシアから2人来ていたことを証言しています(注10)。当時のパリは、19世紀の新古典主義建築ばかりで、コルビュジェの建築を学びに来た前川は、失望したようです(前掲注2)。

図5 国際連盟コンペ案
図6 セントロ・ソユースコンペ案

 コルビュジェは、1931年にソビエト・パレスの設計競技にも応募しますが、入選しませんでした。スターリンは、自分の権力を誇示するための記念碑の建設に、もはや近代建築を望まなかったのでしょう。1934年にはイタリアを訪問してムッソリーニにも接触を試みています。コルビュジェ自身政治に無頓着で、自分の建築ができるのであれば相手は誰でも良かったのかも知れません。前川國男は、「ローマに行けば『赤』とののしられ、モスクワに行けばプチブルとそしられる」と苦笑するコルビュジェの一面を伝えています(前掲注3)。

注10)佐々木宏『近代建築の目撃者』p199(新建築社、1977年)。

閑話休題
 堀口捨己や今井兼次など、わが国の建築家が雑誌で得た情報をもとに渡欧して実見したことは、よく知られています。大学生が熱心に雑誌を見ていたことも容易に想像できますが、中等工業学校生も情報を収集し、研究していました。

 図7・8は、ともに卒業設計の図面です。図7の不等角投影法(アクソメトリック)で描かれた鳥瞰図は、図5を想起させます。また、図8の鳥瞰図は、図法・意匠ともに、図6の強い影響を感じさせます。ヨーロッパの近代建築の意匠が、日本の建築学生に幅広く浸透していたことが窺えます。

図7 大阪アベノ橋駅案
図8 民衆娯楽場案

 指導教員は、これらの作品が、「全然独創的に設計創案したものと言ふよりは、何かで得たヒントやら・・見様見真似で作り上げた作品」であることを示し、意匠については、「斯うして作習するのが上達の近道」と指導方針を示しています(注11)。この学校では、設計課題として様式建築の設計も課していますが、卒業設計ではモダニズムが流行っていたようです。

注11)『建築設計優秀作品図集』(修文館、1940年)所載、長尾勝馬「作                 品選定に当って」。第33~36回「都島工業学校の生徒作品」参照。 

次回は、筆者が見たコルビュジェの作品を主に紹介します。

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