見出し画像

「友がみなわれよりえらく見ゆる日」だけど…。

二人は彼女に言った。「あなたが我々に誓わせた誓いから、我々が解かれることもある。我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。またあなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。もし、だれかが戸口から外へ出たなら、血を流すことになっても、その責任はその人にある。我々には責任がない。だが、あなたと一緒に家の中にいる者に手をかけるなら、その血の責任は我々にある。もし、あなたが我々のことをだれかに知らせるなら、我々は、あなたの誓わせた誓いから解かれる。」

旧約聖書 ヨシュア記 2章17-20節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員として働く、牧師です。

タイトルに挙げたのは石川啄木の歌の一節。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買い来て妻としたしむ 啄木

石川啄木がなんとなく好きです。いや、さほど詳しいというわけではありませんが。若かりし日に、かの有名な「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」と出会い、自分がぱぁーっと空へ吸い上げられていくような気持ちになりました。たぶんそれがきっかけ。啄木は、その生涯を垣間見ると、「近くにいたらイラっとするタイプだな……」なんて思ってしまうのですが(啄木さんごめんなさい)、自尊心と自己卑下との間で揺らぐセンチメンタリズムが、多くの人にとって「くっ、分かる……」と思わせる感じなのではないかしら。ちなみに函館に研修出張に行った際は、わざわざ啄木小公園や歌碑を訪れました。秋のことでしたが、雨が降ってきて薄暗くて心細くて寒かったけれども、てくてく歩いて。ん? やっぱり結構熱心なファンなのかも?

ともあれ「われよりえらく……」ですよ。こんな気持ちになる日が、あります。自虐クドウですからね。割合しょっちゅうあります。

他の人はみんな自分より頑張っているように思える。他の人はみんなちゃんと実績を残しているように思える。他の人はみんな評価されて感謝されているように思える。

それに引き換え自分は、目の前のことにいっぱいいっぱいで、「何事か」を成せていない。とりあえずの仕事はこなしているかもしれないけれど、特に誰かの役に立ったり感謝されたりしているわけでもない。なんなら、「いない方がいい」と思われているんじゃないか。

頭では分かっているんです、「そんな明確な出来不出来があるわけじゃなかろう」と。輝いて見えるあの人にもいろんな苦労や悩みはあるだろうし、自信満々に見える人だって実は日々不安と闘っているかもしれない。「表向き」の顔もあれば、他人には見せない泣き顔だってあるでしょう。

でもね、どうしようもなく「あー、もう、だめだー、自分なんてー」という気持ちになる時は、ありますね。きっとそういう時こそ啄木です。啄木と一緒になって、めそめそ泣いたり砂に腹這いになってみたり蟹とたわむれたりして、自分を慰めるのが良さそうです。

ただね、砂にまみれて涙でべそべそになりながらもふと振り返ると、「案外そんな自分のことも必要としてくれていた人がいたな」と思い当たるんです。

そういえばこの半月ほどで、複数の生徒や卒業生から立て続けに相談を受けたのでした。内容はそれぞれバラバラで、私には解決しようのないことがほとんど。本当にただ一緒に心を痛めて話を聞くだけ……という感じで、「あとはとにかく祈ってるよ……」みたいな頼りない相手しかできないのですが。それでも「ありがとうございました」って言ってくれるんですよね、皆さん。それが申し訳ないような、こちらこそありがたいような。困った時に私を思い出してくれて、ありがとう、と。

冒頭の聖句は、遊女ラハブが窓に「赤いひも」を結んでおくことでイスラエル軍の襲撃から免れるというお話。カナン人の遊女ラハブはカナン侵攻のためにやって来たイスラエル人の斥候たちをとっさの機転でかくまい、その見返りとして、自らと近親者の命を守ってくれるよう願い出ます。斥候たちは「イスラエル軍侵入の際、窓に赤いひもを結んでおくように。それを目印とし、その家の者は襲わない」と約束しました。

赤いひも。窓に結び付けたそれは、きっと頼りなく風になびいていたのではないかと想像します。けれどもその一本のひもが、ラハブとその愛する者たちを守る「希望のしるし」となりました。当時決して「立派な人物」と言われることはなかった、異邦人の遊女が結んだ、たった一本のひも。

希望や救いというのは、意外とこういうささやかなところから始まるのかな、と思わされます。

私の能力、私の実績、私への評価。それらはどれもごく小さな些細なものかもしれないけれど、もしかしたらその「小さな私」の働きが、誰かにとっての「大きな喜び」の糸口になることもあるかもしれない。誰の目にも鮮やかに映る特大の横断幕でなくても、窓辺に揺れる一本のひもが導く希望の明日があるかもしれない。

友はみんな立派に翻る旗や横断幕みたいに見える。でも私もラハブの結んだひもみたいな役割が果たせたとするなら、まあ捨てたもんでもないかな……なんて、じっと手を見つつ考えるのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?