地味な積み重ねに滋味が生まれる
こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。
私はいわゆる「新卒」で今の職場に入ったので、他の職場や業種の仕事についてあまり知らないのですが、「年度」に大きく左右されるというのは、他のお仕事にもあるのでしょうか。
ご想像いただける方も多いかと思いますが、教員という仕事はめちゃくちゃ年度を意識します。何せ仕事の相手とかがごっそり変わったりするわけですからね。
で、3学期ともなる今の時期、だんだんと「新年度」に向けての地殻変動の予感みたいなものが高まってくるわけです。
私は気付けば教員歴が20年に及ぼうとしていて、「はー、もうぺーぺーの顔して逃げていられない年になってきたなー」なんて思ったりするのですが、年数を重ねれば重ねるほどふっと「こんな風に変わり映えのしない授業を繰り返していて何か意味があるのだろうか」と虚無の風が心に吹き込んでくることがあります。
もちろん、いろいろと授業内容や自分のスタンスについてブラッシュアップもするよう心掛けているし、全く同じ授業ということは無いのですが、「自分がやっていることにどれほどの意味があるのだろうか」と途方もないような情けなさを感じてしまう時というのはあります。傲慢を避けるために、これはこれで大事なことだとも思いますけれども。
家事なんかでも、「買い物行って、作って、食べて、片付けて。また作って、食べて、片付けて」みたいに思うと「なんだこの永遠のループは」みたいな気持ちになることはあります。こういう「ルーティンに対して感じる虚しさ」って、大なり小なりみんなあるんでしょうね。
でも、一見淡々と繰り返されているだけのように思われる営みの中にも、しっかりと意味や味わい深さが生まれているのかな、なんて思ったりしました。
冒頭に引用したのは、イエスが人々の前で初めて公に行った奇跡の物語として知られる、「カナの婚礼」のお話です。
婚礼の席でぶどう酒が足りなくなった際、イエスは召使たちに「水がめに水を入れなさい」とだけ言います。
水がめに水を汲むというのは、命じられた召使たちにとっては日常も日常、嫌気が差すほど繰り返されてきたルーティンの仕事であったろうと思います。ところが、この「当たり前のこと」をしただけで、「水がぶどう酒に変わる」という奇跡が起こり、その味わいに婚礼の宴席の喜びが一層増し加わる……という出来事となったのです。
「水がぶどう酒に変わるんなら、私の千円札が一万円札に変わっても良いのでは」などと下世話なことを思うのではなくて(思ってるのはアンタだけ)(笑)、この物語を「地道に地味に繰り返されてきた営みの中で、奇跡と呼ぶべき喜びが生み出される物語」として読むと、なんだか励まされる気がしてきます。
「奇跡」というととてつもない、自分なんかとは関わりの無い出来事だと思ってしまうけれど、自分に与えられた、自分にできる、自分が日々誠実に努めてきたことを、変わらず大切にすることの中で、喜びの奇跡が生まれる。
華やかな仕事や、大きな賞賛を自分のものとしている人は羨ましく見えたりするかもしれないけれど、実は地味に思われた自分の営みこそが、滋味溢れる味わい深い豊かな恵みを生み出しているのかもしれません。
そんな風に自分を励ましつつ、年度の締めくくりと、新年度に向けての備えを、地道に地味にやっていきたいなと思う今日この頃です。
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